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ところによって、


 そういえば明日は雨だという。

 車のカーラジオが教えてくれる天気予報が、無意識にハンドルを握っている俺にそう教えてくれる。高度な反射能力で何も考えずに運転している俺にそのラジオは語りかけてくる。

 明日は雨でしばらく続くでしょうと。

 それからなんとなく、自分が車を運転していて、今は仕事が終わって家に帰っている途中なのだと自覚が持てるようになってきた。ここ最近はその高度な反射能力で日々をなんとなく過ごしているだけな気がして、久しぶりに俗世に帰ってきたような感覚になった。そしてラジオが教えてくれる。

 明日の雨で、日中の平均気温はやや上がるでしょうと。

 雨を最近見ていないと気づく。それに付随して、そうかしばらくずっと晴れていたのだのかもしれない、と思い至る。なら最後に雨を見たのはいつだろうと考える。それはもしかしたらあの日ではないかと振り返る。あれはたしか数週間前だった気がする。そしてラジオはさらに俺を俗世に引き込んでいく。

 洗濯物はあまり乾かないので、早めの対策をと。

 男女の別れがコインランドリーというのは、おそらく稀有なパターンであろう。俺だって予想もつかなかった。いつかどこかでは来るかもしれないであろうとは思っていたけれど、それは今ではないし、ましてやこんなところでもないとタカをくくっていたのだ。でもそのときはやってきたし、その出来事はその場所を舞台に選んだ。俺はたぶんたまたま選ばれた役者であったのだ。そしてラジオの雑音がひどくなったのは、おそらくトンネルに入ったからだろう。この時間の渋滞はもはや日常になっている。車は一切前に進まない。断片的に入ってくる情報はやはり天気の、これまた断片的な情報だった。

 今週末までずっとこの天気が続くでしょうと。

 コインランドリーで雑誌を広げ、洗濯物が乾くのを待っていた俺は目の前に立っていた彼女に一瞬気がつかなかった。いつの間にかオレの前にやってきて、座っている俺を見下ろしていたのだ。彼女が唐突に俺に告げる。わたしはあなたを許さない。でも愛してる。わたしがあなたを愛しているうちに、あなたを激しく憎んでしまう前に、わたしを殺して欲しい。お願い。あなたをこれ以上憎みたくないの。あなたをただ好きでいたいの。だからお願い。わたしを殺してよ。そしてトンネルを抜けるとラジオは復旧し、パーソナリティはまだ天気の話題を引きずっている。

 部屋干しするなら匂いよりも服のシワを気にするべきだと。

 彼女はいつも不安定なものを抱えていて、でも俺はそれを100分の1も理解してあげられなかったのだと思う。彼女のことがわからなかった。どうしてそんなに人を憎んでしまうのか。どうしてそんなに冷静ではいられないのか。どうしてまたこんな場所を選んだのか。俺にはどうしても理解できない。俺にわかるのはあと19分で洗濯物が乾くということと、その19分では今読んでいる雑誌はきっと暇はつぶせないだろうということ。雨ばかりの日々は明日でようやく一区切りするということ。あれからどうなったんだっけ。その次の日は晴れたんだっけな。わからない。そしてラジオでは明日から雨だとあいかわらず告げている。それが本当なのかも俺にはわからない。

 強い雨が続くので折りたたみ傘よりも大きめの傘を持参してお出かけくださいと。

 君がとても不安定なのは十分伝わったよ。俺のことを愛しているということも。それが歪んだ形で現れているということも。ならあと19分後に洗濯物が乾いて、それを畳んでカゴに入れ、少しタバコを吸ったら、君の望むようにしてあげよう。君がそれを望んでいるなら、俺はそうしよう。君を理解することはできない。君のことをわかってあげたいけれど、でも俺には少しもわかってあげることはできない。ならせめて、君が望むようにしてあげよう。その結果、あらゆる負債を背負うことになっても。君がそれで気が済むなら、俺はそうする。そしてラジオからは天気の話はなくなり、季節の話になっていた。

 じつは6月よりも、この時期の方が雨量は多いんですと。

 雨なんて嫌いと彼女はいった。この世からなくなってしまえばいいといった。俺もそう思う。雨さえなければ、こんなところで、こんな話をしなくて済んだのだ。雨さえなければ車からワイパーがなくなるし、狭い玄関に傘立てを置かなくてすむ。傘を持っている右手が空いて、その手で君と手をつなげる。そうすれば少しだけ君を理解できるのかもしれない。君は殺してと叫ばなくなり、このコインランドリーはリサイクルショップになるかもしれない。そのリサイクルショップにはきっとレインコートを置かなくていい。その代わりにコーヒーメーカをおける。コーヒーなら君は適度な距離できっと愛し続けられるだろう。そしてラジオの番組は締めに入る。

 雨にまつわるエピソードをお待ちしています。宛先はー

 結局彼女は死ななかったし、俺は彼女を殺したりなんかしなかった。もともとそんなつもりはまったくない。理解が遠くにあるときは、あえてもっと離れてみるものだ。すると意外と理解は近づくのかもしれない。俺はそう思った。けれど彼女相手ではだめだった。彼女は結局、あれ以来俺の前から姿を消した。一切の音沙汰もなくなってしまった。そして俺はラジオを切り、車のハンドルを切って右折する。今朝放り込んでおいた洗濯物をコインランドリーに取りに行くからだ。車を駐車場に留め、乾燥機へ向かう。もう一度コインを入れ、10分回す。その間雑誌を読むことにする。するといつの間にか目の前に彼女が立っていた。そういえば、と俺は思う。

 そういえば明日は雨だと。


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