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アート界のオリンピック。ヴェネツィア・ビエンナーレとアートのディズニーランド化現象

前日に早めに休んだので、機嫌よく起きてヴェネツィア・ビエンナーレの会場に向かった。

ヴェネツィア・ビエンナーレとは、2年に1度行われる「アート界のオリンピック」と呼ばれる大型国際展で、国ごとに展示が行われる。日本の場合、毎回まずキュレーターを選出して、そのキュレーターが作家を選出する形で展覧会を組み立てるのが通例だ。ヴェネツィア・ビエンナーレに選出されるのは非常に名誉なことなのだ。

10時過ぎには会場について、マップと48時間チケットを手に入れた。

メイン会場は2箇所。まずは海岸沿いの倉庫を改修したARSENALEの作品を鑑賞する。大型のインスタレーションが多い。

最初に訪れたゾーンはテーマ展示で、「Common」とか、「Earth」、「Shamans」などのテーマがある。日本人作家の展示もあった。

3年前の札幌国際芸術祭に出品されていた島袋道浩の「携帯電話を石器と交換する」など。

鑑賞者が受付でほんとうに自分の携帯電話と石器を交換して、そこから少し歩くとある古代の史跡を訪れるという作品だ。なぜだか古代人と石器を通じて交信する感覚になれて楽しかったものだ。

ミュンスター彫刻プロジェクトにも参加していた田中功起は最新作を出品。福島から黙々と歩く田中自身の姿を追った映像作品の続編として、いま田中が住んでいる京都を出発して田舎町を歩いている姿を追ったものだ。映像中で田中があつめるガラクタや、履いていた靴も合わせて展示されていた。

他国の作家の作品と対比される環境で彼らの作品を鑑賞すると、ずいぶんと表現が内向きというか、作家も鑑賞者にも、自らの内面を見つめるような示唆があることがわかる。瞑想的とでもいおうか。

とはいえ、アート界のオリンピックで好きな作家の作品と再開するのは、なぜだかテンションがあがるものである。昨年、豊島にできた常設展示の短い記事を書かせてもらったアンリ・サラの作品もあった。

女の子が見つめているのは、オルゴールになっている壁紙の模様の「型」で、左右の壁紙の模様が違うが、「型」には等分にそれぞれの模様があり、その模様を刻むはずの突起部分が回転することでオルゴールを鳴らし、静かな音楽を奏でている。境界線上で起こる衝突が静かに表現されていて、とても美しかった。

ヴェネツィア・ビエンナーレはとにかく巨大だ。10時すぎにARSENALEに入り、お昼を食べて、1時間弱くらいは芝生の広場で昼寝もしたんだけれども、閉場する18時までに、その会場を出ることができなかった。

全体の印象としてはそこまでハイテクではなくとも、技術の高い大型インスタレーションが多く、社会問題というよりも民族性の中にある美的な感覚を表出させている作品が多かった。ドクメンタほどは政治や社会に斬りこむ激しさはなく、どちらかといえばハッピー。そういう意味では、「ディズニーランド化」といわれる現代アートの一つの問題点と接近しているようでもある。

体験型のインスタレーションは、視覚、音、空間、光など、多角的に鑑賞者に刺激を与え、非常に豊かな鑑賞体験を与えてくれる。しかし、そこに良いコンセプトも必要だ。アートが内在すべき良き問いがあるといい。問いが弱い場合、鑑賞者はただ驚きや鑑賞の楽しさを感じるのみ。そして、そこまでの表現に止まってしまった場合、「ディズニーランドのアトラクションと、何が違うんだ」という批判が出るのだ。ついでに言っておくと、本気のエンターテイメントはアートの世界よりもずっと質のよい舞台や空間を作り続けている。

とはいえヴェネツィア・ビエンナーレである。美術展と建築展が毎年交互におこなわれ、アートと建築界の人のあこがれの大型国際展であり1895年から開催され、長いながーい歴史がある。そのため、ヴェネツィア・ビエンナーレのエッセンスが日本各所で行われている芸術祭に移植されているのを、さまざかな箇所から感じることができた。ただ移植するのではなくって、批判的に検証してよりよいオリジナルを作るっていう方が本質的にはいいんだろうけれど、日本の芸術祭は行政主導のものが多く、まちおこしを目的とする傾向が強いため、アートの文脈で革新的なことをやろうと思ったら、ちと難しい。革新的なあり方はもっと若手アーティストが運営するオルタナティブ・スペースがやったらいいんだろう。

事前に聞いていた通り、図録は分厚い本図録のほかに持ち歩きやすいハンディ版も用意されていた。本図録のほうはイエローページを上まる厚みで、帰りの飛行機の荷物容量に差し障りそうだったので、ハンディ版を購入した。

前日はサン・マルコ広場の周辺で観光客にイライラとしてばかりだったが、ヴェネツィア・ビエンナーレの会場ではまったくイライラしなかった。展覧会の会場では、みな穏やかな表情で、ひとつひとつ丁寧に作品と接しているし、日本のようにやたらと写真ばかり撮る人もいない。静かで落ち着く。

美術展を人々が訪れる様子と、教会での人々の振る舞いが似通っていることに気がついた。アートは異なる文化を持つ人々と向き合うための新しい言語を超えた言語でもあるし、展覧会はオルタナティブな教会のようである。作品と向き合いながら、自分の内面に耳を澄まし、高次なエネルギーを交感して、エネルギーをチャージしたり、自分の生き方を微調整するかのような。

ビエンナーレ会場から水上バスで宿に戻る道すがら、テイクアウトのピザのお店をみつけて、カプリチョーザを注文した。これが、美味しかった。調子にのって、海岸のキヨスクでビールを買い、海辺に腰掛けてうっすらとピンク色に染まってきたヴェニスの空を眺めた。カモメが観光客の食事のおこぼれを狙っている。穏やかな1日が終わろうとしていた。


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