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愛の三類型②フィリアは満ち足りた愛

こんにちは。
西園寺えるです。

いま社会に必要な愛シリーズ、
愛の三類系ふたつめです。
今回はフィリアについて。

前回のエロスはコチラ

「ことばの定義や細かい意味を見ていくのはまどろっこしいよ~愛の中身をパーツ分けして意味あるの?」と思ったそこのあなた。

私もまどろっこしいと思いますが、定義まどろっこしい派の人こそ、ことばの意味を紐解くと新たな発見があるんですこれが…。

急がば回れ、一緒に回っていきましょう~。

愛の三類型・フィリアとは

フィリアとは。
ひとことで言うと「双方向の満ち足りた愛」。

自分にないものを熱烈に求めるエロスとは対照的に、いまあるもの、もっているもののありのままを受け入れ、大切にするということ。

どちらかだけだと片思い。
お互いがそう想ってこそのフィリアです。

エロスが持っている情熱や向上心は姿を隠し、
安定と満足がお互いの心を支配する。

みなさんどう思いますか?

これが理想の愛じゃない?って、思いませんか?

お互いのありのままを、相手の知っている部分をそのまま認め合う愛。
なんて素敵なんだ。
夫婦愛、家族愛、熱い友情。
そんなイメージですね。

フィリアの欠点

でも、そんなフィリアにも欠点はあります。
大きく2つ。

  • 価値判断がともなう愛であること

  • 外部に対して働かない(排他的な)こと

価値判断が伴うというのは、自分が価値を感じるもの、善とするものしか愛せないということである。

たとえば、友人が犯罪に手を染めてしまったら、見限ってしまうとか。

パートナーの見た目や性格、仕事などが変わったら冷めてしまうとか。

愛する者がある日突然介護が必要になったら?重い病気になったら?

変わらぬ愛を誓えますか?


もうひとつの「排他的」というのは、自分の知らないもの、持たないものに興味関心がなく、愛もないということです。

田舎の付き合いが長い人には優しいが新参者の移住者には冷たいとか…
自分が所属しないマイノリティを迫害するとか…
近頃の若者は vs 老害乙 とか…

ほかにも山ほどこんな対立ありますよね。

これらは、フィリアだけでは乗り越えられないのです。


そしてフィリアへの試練とも言うべきそんな状況で、真価を発揮する愛があります。

それが、アガペー(慈愛)です。
キリスト教や世界史に明るい方は、私より詳しいかもしれません。

無償で与える愛です。
体現できる人、ほとんど周りにいないと思います。

「愛は技術」という言葉の神髄も見えてくるんじゃないでしょうか。

みなさんはどうでしょう

さてフィリアについてはこんな感じです。

卒論を書いた当時、私はフィリアに至れる自信がありませんでした。

恋人とは1年半ぐらいで私がどうしても目移りしてしまい、別れてすぐ違うタイプの人と付き合う、を繰り返しており。

私はエロスの2年の壁を越えられない、一生これを繰り返すんじゃないかと危惧しておりました。

私は安定した結婚生活は送れないのか?
幸せな家庭は築けないのか?
愛で心を満たすことはできないのか?

フィリアの心を持つことは、すぐにはできません。
人生経験やら人格の成長とともに、相手との関係性のなかでゆっくり育むもの。

生き急ぎマンである私は、その辺のジャッジを直観に任せ、

「私が飽きずに2年以上付き合えた人と結婚する」と固く心に決めました。笑

夫と付き合ったときも、夫にも言いました。
2年以上付き合った人と結婚するつもりだから、違うと思ったらその前に振ってね、と。
(外堀をせっせと埋めていくスタイル。ひどい女だね。)

さて。
私がnote上であふれるフィリアを感じるのは、ひいろさん(ひいろ|note)です。

交流を通じて、愛で満たされる気持ち。

排他的であると感じないのは、ひいろさんがエロス知的好奇心も持ち合わせて、新しく関係を築こうとしたり、輪を広げようとしたりしているのがわかるからではないかと思います。
「開かれたフィリア」と言えばいいのかな…?

いま解説している3種類の愛は、どれも完璧ではありません。
最後のアガペーですら。

どれかひとつの愛に固執するのではなく、自分にあわせてミックスしたり、相手との関係性のなかで変化させたりする必要があるんですよね。

次回のアガペーのあとは、その辺のことを書いていきます~

それでは。

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