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自分で淹れたコーヒーは自分で淹れたコーヒーでしかない

コーヒーを淹れる習慣


わたしは毎朝、家でコーヒーを淹れる。
お湯を沸かし、豆をミルで挽き、ドリッパーにフィルターをセットする。
マグカップにお湯を注ぎ温め、フィルターに湯通しをする。
最初に少し湯を注ぎ、じゅうぶんに豆を蒸らす。
さらに何回かにわけてお湯を注ぎ、お湯が引けていくドリッパーとサーバーに落ちるコーヒーの様子をじっと見る。

良いのか悪いのかわからないけど、そうして淹れたコーヒーはいつも同じような感じがする。日によってコーヒー豆や淹れ方を変えると、もちろん味や香りは違ったものになる。でもなんでだろ、なんか「自分の淹れたコーヒー」の枠を出ないコーヒーだなぁと思うことがある。母が「自分で作る料理を食べるの飽きた。誰かに作ってもらった料理が食べたい。」って昔よく言ってたの、こういうことか、って感じ。

淹れ方のクセだとか、浅煎りばっかり買っているからとか、そういうのももちろん関係あるとおもう。(だって浅煎りが好きなんだもん。)
ドリッパー変えてみたら?とか新しいマグ買ってみなよ、とかももちろん新鮮みを取り入れる手段としてわかる。
実際、新しいドリッパーを買って淹れてしばらくは「あぁ~美味しい。もっと早くこのドリッパー買えばよかったなー。」と思ったから。

でもどれをやってみたとしても「自分で淹れたコーヒー」は「自分で淹れたコーヒー」でしかない。「 ” 誰か ” が淹れてくれたコーヒー」になることはない。

どうして自分で淹れるコーヒーでは満たされないのか


じゃあ「自分で淹れたコーヒー」ではなく「誰かが淹れてくれたコーヒー」を飲みたくなるのはどうしてだろう。ときどき考えていたことが、この本を読んで分かった気がした。



この本はべつにコーヒーのことについて書いてあるわけじゃない。デイケアセンターを舞台にした小説仕立ての学術書で「ケアとはなにか」「セラピーとケアの違いとは?」みたいなことが描かれている。

わたしにとって「誰かに淹れてもらったコーヒーを飲む」ということは「ケアされること」なんじゃないかと思った。
別にコーヒーを淹れてくれる人に話を聞いてもらうわけでもない。(聞いてもらうときもあるけど。)ただ、コーヒーを淹れてもらう間に軽い雑談をしたり、もしくはひとりカフェの席でぼーっとしたり、コーヒーを淹れる所作をぼーっと見たり。この時間がなにかを必ず解決するわけではないし、なにかが大きく変わるわけではない。でもなんとなくそこに居て、コーヒーを淹れてもらって「はぁ」と一息つく。これは「自分で淹れたコーヒー」を飲むときには得られない感覚がある。

コーヒーというケア


最初の方に書いた「誰かに作ってもらった料理が食べたい母」の話もしておく。私はいままでほとんどしてこなかった料理をここ1年くらいでするようになった。料理の味の良し悪しに関わらず「作ってもらった料理って美味しいわ~。」とほぼ毎回、母は喜んでくれる。「自分が料理を作って人に食べさせる」のは「誰かをケアしている」ことになる。そして「ケアする側」の人間も「ケアされること」が必要だとおもう。(このあたりは本にも書いてあった。)

コーヒーを淹れるのは私にとっては一応「自分でもできること」なんだけど、だからこそ「誰かに淹れてもらったコーヒー」は「コーヒー以上のなにか自分をつつむ優しいもの」が添えられていると感じる今日この頃。




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