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『紅白梅図屏風』『燕子花図屏風』

『紅白梅図屏風』『燕子花図屏風』
MOA美術館、根津美術館



四季を、芸術を通して愛でるということにハマりだして早2年。
冬は長谷川等伯の『松林図屏風』と円山応挙の『雪松図屏風』、春は川合玉堂の『行く春』、夏は酒井抱一の『夏秋草図屏風』、秋は横山大観の『紅葉』と、その季節にしか見ることのできない期間限定レア作品たちを追いかけ、追いかけ、そして!ついに!今年!やっと!尾形光琳2作品を見ることができました!!!あーん嬉しい!!!!



『紅白梅図屏風』はその名のとおり梅が描かれているので冬の季節、1月〜3月の間、熱海にあるMOA美術館で観られます。

熱海、どうせ行くなら温泉とセットで…ぐふふ。と欲張ろうとしたもののそんな暇はなかったので新幹線でビュンっと行って、堪能して、ビュンっと数時間で帰ってきました。
そんな感じで余韻をたっぷり味わうほどの情緒さは皆無でしたが、その日は大変いいお天気で、海がキラキラ輝いて遠くの方まで良く見えて、「♪あっのっひっとの〜ママに会うために〜」と歌ってしまいそうな感じで遠藤初めてのMOA美術館はとっても楽しい時間になりました♡


行ってみて、おや…?めちゃくちゃ杉本博司を感じるぞ…?と思ったら、ごりごりの杉本博司(新素材研究所)ディレクションなんですね!!
トーハクよりも激渋な作品のラインナップ、そして壁かと思ったら自動ドアだったどこやねん入り口、余白余韻た〜っぷり溜めまくり作品間隔、うっすら仏像の背後に影の出るスピリチュアルライティング、なんか高そうな木板キャプション、極め付けにご自身の写真作品が空間に馴染むインテリアのごとき飾られているエントランスなどなど、杉本博司のインテリおしゃれパワーがフルに感じられる激アツ空間で遠藤大興奮。あぁ、『紅白梅図屏風』の話がしたいのに、杉本博司に気持ちが持っていかれてしまう。



そんな思わぬラッキー(?)もありつつ、本題の\国宝/尾形光琳『紅白梅図屏風』ですが、、、、これがもう思ってた以上にすごかった。私、舐めてたかもしれません。これほど「ぎゃーん!完璧です!!!!」と土下座してしまいそうな作品なかなかないのでは。



国宝級の作品の中でも「この人はここが完成やと思ったんか〜」と何をもって完成なのかわからないけどそこが魅力でもある作品だったり、「ここがこうやったらどう見えるんやろ?」と想像、改変の余地がある作品が少なくない中で、『紅白梅図屏風』はこれ以上ない究極の美がここに表現されているな…と圧倒されました。


川の柔らかい曲線の幅や渦の大きさ、梅の枝の向きや太さ1つとっても、何もかもが完璧。美しい。無茶苦茶美しい。

そして遠近感を感じられるように少しだけ枝が川に重なっている部分が左隻右隻どちらにもあり、それによって白梅、紅梅、川の3つの要素がバラバラに、そして単調に見えてしまうことを防いでる。3つの関係性がしっかり繋がっている。


また、梅は全部が咲ききって満開なわけではなく、蕾がとても多い。これ全部咲いてしまってたら狩野派のドーンバーンドヤ〜〜!になってしまうところですが、あえて引き算する光琳のNEWな美意識よ。なのにとても華やかに見えるのは絶妙な赤と白の配分であって、ここに関しては川合玉堂の『行く春』の時も感じたけれども満開だけが美ではない、むしろ蕾のほうが「これから咲く」という「時間」を表現することもできる気がするということでしょうか。たまんねぇ。


あとこの作品はよくグラフィカルでデザイン性が高い〜みたいに\デザイン/という側面でも高く評価されていますが、そんな端的なものではなくて生命の息吹みたいなものが強く感じられるように思いました。おそらくそれの要因の1つとしては川の渦の表現によるものだと思うのですが、「動」を表現するにあたってこの川の渦のぐるぐる模様で表現するの、マジでおしゃれでは。川の形自体は俯瞰から見たような平面的に意匠化されてるのに(北斎の『諸国瀧廻り「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」』みたい!!)そこにこの渦が装飾されることで上から勢いよく流れてくるように見える不思議。



実はこの作品、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」ラブだった光琳が、構図をそっくりそのまま拝借したと言われてるのですが(重ねてみるとピッタリ合います♡)、風神と雷神は布の動きや雲のもくもく感で「風」による「動」が強く感じられるのですが、その「動」を光琳は流水紋で表現したんやろうなぁと思うとなんかもうすごいなぁほんま。


さて、この『紅白梅図屏風』、何を描いてるねんって感じですが、右隻に描かれたスレンダーな紅梅は若さ、左隻に描かれたゴツゴツした白梅は老いを表していて、真ん中の川は時間の流れを表しているなど諸説あるそうで真実はいまだにわかっていません。

他の説でキモって思ったのが、紅梅は女性を、白梅は男性を表していて真ん中の水流で両者の交わりを表現してるというやつ。

エロに持っていきたい、その方が妖しい魅力が増すというのもわからないでもないですが、実際にこの説を思い浮かべながら作品を目の前に考えてみたところ、交わるとは逆で真ん中の川は隔たりのような超えられない何かを感じました。

琳派ラブのクリムトが『生命の木』などの作品でこの流水紋のような模様を多用していることを思うと、クリムトはこのぐるぐる渦巻きに宇宙そのものを感じたのかもしれません。その関係性も気になるところです。



さて、そんなわけで『紅白梅図屏風』チャレンジに成功した遠藤は、その勢いに乗って今年こそは『燕子花図屏風』も行ってやるぜ!!!!と気合を入れて待ち構えておりました!

同じく尾形光琳の\国宝/『燕子花図屏風』は春の4月〜5月の1ヶ月間だけ表参道にある根津美術館で観られるのですが、な!ん!と!根津美術館には信じられないほどBIGなお庭があって、そこで実際に燕子花を見ることができるのです〜〜〜〜〜♡はぁなんて贅沢!!!!これはもう満開&晴れた日に行かないわけにはいかなくない?!と毎日公式Twitterで燕子花の開花状況を見て、天気予報を見て、行って参りました!!!!!はぁ〜〜〜〜〜〜こんなに大満足な日ある??!?もう、大満足!!!


今年の『燕子花図屏風』は根津嘉一郎さんが開いた昭和12年(1937)5月の超豪華な伝説的茶会がテーマになっていて、そこで取り合わされた茶道具などと一緒に展示されています。

茶会の流れ①待合席 ②本席 ③薄茶席 ④浅酌席 ⑤番茶席の順番に沿ってそれぞれの名品が見られるのですが、『燕子花図屏風』はお茶を嗜んだ後のおまけの席、④浅酌席で円山応挙の『藤花図屏風』、満開の桜が描かれた『吉野図屏風』と共に飾られ、それを見ながら酒宴が開かれたそうです。ぎょえーーー!!!!なんとまぁ豪華なこと!!!!!展示室には実際にこの3つの屏風絵がぐるっと展示されてたのですが、圧巻。こんなスペシャルな絵に囲まれながらお酒を飲むなんて想像しただけでしぬ。はぁ、何、お金持ちの世界、何。憧れと嫉妬と自分の不甲斐なさに打ちひしがれながら(情緒不安定)、『燕子花図屏風』とご対面。

わたしゃこんなにマットな感じだと思ってなかったよ。ディティールというものがない。塗りつぶしたような燕子花。びっくり。重なる燕子花には陰影も皆無なので、薄い輪郭線により辛うじて1本ずつの形を維持してはいるものの、離れて見ると丸っと塗りつぶされた塊に見える。す、すごい意匠性の高さだ。なんだこれは。


さて、この作品は「昔、男ありけり」の『伊勢物語』の第九段「東下り」の場面を表しています。

主人公(在原業平)は都に居場所がないと感じて理想の場所を求めてお友達と一緒に東に向かうのですが、その途中で三河(愛知県東部)の八橋というところで休憩していた時に、水辺に燕子花の群生を見つけたひとりが、主人公に向かって「『かきつばた』の五文字を、句の先頭に入れて、旅の気持ちを読め」とお題を出してきました。その時に詠んだのが


『「か」らころも 「き」つつなれにし 「つ」ましあれば 「は」るばるきぬる 「た」びをしぞおもふ』

で、これは「(すっかり身になじんだ)唐衣のように、(長年なれ親しんだ)妻が(都に)いるので、(妻を残したまま)来てしまった長い旅路(のわびしさ)を、しみじみと思う」という意味だそうです。

歌を聞いた友達はみんな、故郷の妻や彼女のことを想って寂しくて号泣したとのことで、このエピソードから「燕子花=思慕」みたいな感じで以後いろんな絵で象徴的に使われていたりします。


とのことなのですが、私はこの『燕子花図屏風』を見ても故郷の妻を思う気持ちがわからなかったので(ドライ)、一回お庭の燕子花を実際に見てみたら、気持ちが少しはわかるかも~と思い、根津美術館内にあるお庭散策へ。


いやもうこのお庭何?!?すごくない?!どこここ??!表参道?!!?とかなり混乱するほどの森レベルで、しかもそれはそれは手入れが行き届いてて、素晴らしいとしか言いようのない生き生きとした美しい植物たち。太陽の光が眩しく、あたたかくて、鳥がチュンチュン鳴いてて、全てがキラキラ煌めいている。はぁ、都会にユートピア、見つけてしまったわ。最高。


しばらく歩いてると見えました。燕子花の群生が。

☆.。.:*・゜ぱぁああぁあぁぁぁああぁ

☆.。.:*・゜

このときめき、伝わりますかね?紫の燕子花が青々と茂る草木の中で一段と輝いていて、こんな美しい景色に出逢ったら、大切な人と一緒に見たいと思うなこれは。



しばらくぽかぽか陽気の中でじっと見ていたのですが、光琳の燕子花はそれはそれは美しい深い青で描かれていて、もし目の前にある燕子花が青だったらと想像してみると、紫よりも断然青の方が心にきました。海のような深い青は心の弱いところに寄り添ってくれる色やと思う。



なおかつ眩しい昼ではなく陽の落ちるような時間帯やったら?それはそれは寂しさが募るやろうなぁ。


もう一度展示室に戻って絵を見てみました。なるほど光琳の作品は背景が金な上に燕子花はかなり抽象化されていてその本質は直接的には伝わってはこないけど、色々想像した上でこの作品を見ると自然がもたらす超越した力によって押し殺していた寂しさなど、思い出されるものがあるなと感じました。

また、光琳の燕子花は実際に生えてるものよりも2回りぐらい大きく描かれてることにも気づいたのですが、対象に対して恐怖や尊敬の念があるものに対して大きく見えることがあるという事象を思い出して、まさにそういう効果があるのかもしれないなぁとも思いました。


そして何より構図の妙よ。屏風の折れ曲がりを利用した遠近感の表現も文句なしで素晴らしいし、繰り返し型を使って描かれた燕子花は没個性により群衆心理を煽るような力強さがある。

右隻は正面から見た燕子花に対して左隻は少し見下ろすような燕子花と、変化があることで空間が生まれてるのもすごい。すごい作品。いいところがいっぱいある。

決して丁寧な〜とは言えない感じのディティールなのが光琳の人間性が垣間見えるようでまたいい。機械が印刷したような隙のないものだったらまた見え方が違っていたと思う。

はぁ。なんかすごいいいもの見た。大満足。

一緒に展示されてた応挙の\重要文化財/「藤花図屏風」も応挙らしい伸び伸びした筆の運びが気持ちよかったです。可愛らしい藤の花に対してダイナミックで自由な枝ぶりの合わせ技がたまらなく美しい作品でした。



そして根津美術館の別室に『画賛』を扱う部屋があったのですが、そこに
『絵画を無声詩、すなわち声(音)の無い詩であるとする考えがあり、実は日本のやまと絵も和歌の視覚化を重要な契機として成立しました』
という説明が書いてあったのですが、なるほどだからやまと絵の心を受け継いだ尾形光琳のような琳派の作品はただの絵というわけではなく和歌のような広がりが感じられるのかと納得しました。


というわけで、『紅白梅図屏風』と『燕子花図屏風』というバチバチの国宝を見ることができて、また、尾形光琳のとんでもない魅力に気づくことができて、そしてやっぱり何よりその季節にしか見れない作品+そこに描かれている季節の花や植物を一緒に見る体験はこれ以上ない幸せだなぁと再確認しました。


移り行く日本の四季、マジで美しいな。これからも存分に愛でていきたいと思います!!!

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