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仕事のはなし② 「窓拭き」

2002年11月5日、pm10時。
僕らは大阪の高級ホテル「ザ・リッツ・カールトン大阪」の通用口にいた。
さっきまでの熱気のせいか、冷たいビル風が吹き抜けても不思議と寒さは感じなかった。

ガチャリ。

重い音を鳴らして、そっと足を差し出す。あまりに静かで、まるで眠り込んだ誰かの寝室に忍び込むみたいだ。葉っぱが描かれたふかふかの絨毯をスニーカーで踏むと、足音すら吸い込まれてしまった。
シャッターが降りた閉店後のショップを横目に、薄暗い通路を進んでいく。通路の行き当たりで、絨毯は左側にある短い下り階段に続いていた。
たった数段だったが、降りてしまえば“本当に”ホテルに足を踏み入れることになる。躊躇してロビーを眺めると、葉っぱ模様の絨毯は広々とした空間の向こうまで敷き詰められていた。

足元で、階段に腰掛けた小柄な男が電話する声が聞こえた。



僕が窓拭きの清掃会社に入ったのは、仕事が楽しいとかやりがいがあるとかそんなんじゃない。単に、他の仕事よりも割りが良かったからだ。
高層ビルの屋上からゴンドラやロープに吊られて建物のガラスを拭く。
専門的なようでコツさえ掴めば誰にでもできる単純な作業だった。
高所さえ怖くなければ窓拭きの仕事は悪くない、というのが僕の個人的な意見だ。

兄が社長を、弟が専務を務める小さな清掃会社は、大阪の庄内にあった。“事務所”と呼ばれる古いアパートの2階は、清掃会社とは思えないほど汚く、ベニヤ板で作られた玄関のドアは毎回肩で押し破るように開けなければならなかった。事務所の隣の部屋にはバサバサの白髪のばあさんが住んでいて、その老婆は兄弟の母親だと後で聞いた。

大阪の商業施設や有名ホテル、梅田の百貨店…。
小さな会社のくせに、用事がない限り僕が行かないような建物の案件が多かった。「ザ・リッツ・カールトン大阪」もそのひとつだ。

「大阪で芸能人が泊まるホテル言うたら、リッツかヒルトンや」

田舎出身の僕に、大阪のイロハを教えるみたいに社長は何度も口にしていたが、要するに自慢だ。弱小清掃業者が高級ホテルの清掃を請け負ってることが社長の誇りだった。

その証拠にリッツ・カールトンに入るときだけ、ユニフォームのポロシャツをインパンするよう厳しく注意されたし、雑巾は水滴が絨毯に落ちないよう固く絞れと指導を受けた。
ホテルは24時間営業なので、仕事中の出入りはどれだけ遠回りでも、必ず従業員通用口を使うことも口酸っぱく教え込まれた。

だからあの日、レッド・ホット・チリペッパーズのライブを観たあとで、僕らがリッツ・カールトンに向ったのは当然と言えば当然だった。

僕と一緒にバンドを組んでいた伊藤と渡辺、友達の松本。
練習だと言いながらレッチリのリフを真似て弾いていた僕らが、大阪城ホールに向かうときの浮かれた足取りと高揚感は今でも覚えている。

客電が消えステージにメンバー4人が現れた瞬間、会場が揺れた。
伊藤が「俺行くわ」と言い残して柵を乗り越え前の方へ突進して行く。伊藤だけじゃない、観客のほとんどがステージへ押しかけ、僕らの前にはぽっかりと空間が出来上がった。
僕らは柵を乗り越えることもモッシュにも加わることもなく、アリーナ席の後方で観た。
耳で何度も聴いた音が、エナジーの塊となって身体のなかで鳴り響く。
背を丸くしてベースをはじくフリー、チャドのパワフルなドラミング、クールなジョン・フルシアンテ、そして愚直なほど真っ直ぐなアンソニー。
全身全霊で歌うアンソニーのオープンマインドに僕はすっかりやられてしまった。じわじわと湧き上がる興奮と喜びを持て余したまま、1時間半の公演はあっという間に終わったのだった。

汗だくの伊藤と出口で合流し、みんなで噛み締めるように感想を言い合った。高鳴る胸を抑えて家には帰れなかった。それで誰かが言い出したのだ。出待ちしよう、と。

でもどこで?

僕は社長の言葉を思い出した。

「大阪で芸能人が泊まるホテルいうたら、リッツかヒルトンらしいで」

さらに「リッツやったら従業員通用口の場所分かるで」と言うと、場がどよめいた。
盛り上がる僕らをよそに、伊藤だけが「満足したんで」と帰って行った。
「どうせ会われへんやろけど行こうぜ」
こうして残された三人でリッツ・カールトンに乗り込んだのだった。



ここで話は冒頭に戻る。
階段の上から眺めるホテルのロビーは、今までのふわふわした世界から切り離されたように厳かだった。一瞬ひるみかけたが、突然渡辺が髪の薄い外国人を指差した。

「あっこにおるんフリーちゃう?」
「そんなわけないやろ」
「ハゲてるだけやんけ」

いつものモードで話し始めると調子づいた。

「ほな、あれは?」
「あれはどう見ても日本人のおっさんや」
「そしたらこれ、アンソニーちゃう?」

階段の下で座って電話していた男を指差し、渡辺が“アンソニー”と言った瞬間、そいつが段差に頭を置いて顔を上げた。

目が合うと時間が止まった。

さっき大阪城ホールのど真ん中でマイクを握っていた顔だった。

「アンソニー!!!!!」


ヤベー!
アンソニーに駆け寄ってカタコトの英語でライブの感想を伝える。
アンソニーは立ち上がって電話の相手に何かを伝えると、僕らの方に握手の手を伸ばした。
差し出された手をぎゅっと握りしめる。
何を伝えればいいのかわからなかった。
誰かが「写真…」と言ったので、アンソニーに写真を撮るジェスチャーをみんなで繰り返した。

フォト!
フォト…!
プリーズ、フォト!
トゥゲザー!

ところが当時は、まだケータイにカメラ機能がなかった。
「ここで、ヒアー、待ってて」とアンソニーに身振り手振りで伝えて、僕はダッシュでコンビニに向かった。
仕事の休憩でいつも行くコンビニ!
通用口からコンビニへの最短距離を通って『写ルンです』を買いに走った。

そうして撮った写真がこれだ。

アンソニーの肩に手を置いているのが僕。
緊張して僕の肩に手を置いているのが渡辺。


窓拭きの仕事は悪くない。

な、言った通りだろ?

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