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Today is the anniversary of my father's death. ~父へ贈る言葉~


今日、4月15日はあなたの命日。
亡くなってからもう数えきれない程の
季節が巡りました。
気が付くと
今の私はあなたより少しお姉さんになって
今、この時を生きています。


”ねぇ、私がもう一人の命を預かってこの世に生まれたとき、
どんな気持ちで私を腕に抱いたの?”

”遠い空から、今どんな想いで私を見守ってるの?



今、あなたがが想うような娘に、
私はなっていますか?”




もしも今、父と話すことが出来たら。
そんなことを、この日が来るたびに想います。

幼い頃、私の逃げ場所はいつも、父の大きな腕の中でした。
自分は存在してても良いのだと思える唯一の場所。
それが父だった気がします。


仕事に生きた人でした。家庭を顧みない人でした。
いや、生きていた時代がそうさせたのかもしれま
せん。


子供の頃、よく父の晩酌の相手をしていました。
私は父の"酒のつまみ”のご褒美が欲しくって
よく分からない、父の仕事の話や人間関係、人としてどうあるべきか、そんな話を延々聞かされたものでした。

時々、父が不意を突いて私に聞きます。

「父さんが何を言いたいか、わかるか?」って。

「わかんない」と私が言うと

「じゃぁもう一回、最初から話すぞ!」

そう言って笑いながらまた”酒のつまみ”を私に
少し分けてまた話を始めるんです。

にこにこ笑って私に話す、そんな父が大好きでした。
その時に何気なく聞いていた色んな話も、今とな
っては自分が生きていく上で糧となり、背中を押
す言葉となってずいぶん助けられてる気がします。


中学生の頃の話。


父は荒れていました。
酒を飲んでは夫婦喧嘩。酒乱気のある人でした。
酒に飲まれる日が多かった。
今思うと、その頃が父にとって一番辛く苦しい時期だったのだと思います。

私はそれがただの両親の不仲としか見えていなかった。
母の暴力は理不尽だったし、私にまで手を上げるようになっていった父。
そんな両親をその時は憎んでいたし、”どうして自分だけ” そんな思いだけが私の中で膨らんでいきました。

やがて、幼い頃はあんなに大好きだった父を大嫌いになっていった。


自分を大切にできなかった。
もう、どうなってもよかった。


中3のある日、公園のトイレでシンナーを吸っているところを、警察に捕まりました。
それまで、何度か他のことで捕まったことはあったけど、シンナーで捕まったのはそれが初めて。


交番には母が迎えに来ました。
私を見つけるなり駆け寄って私に殴りかかって
きた母。
そんな母に対して少しの罪悪感も抱かなかった私。
一番心が荒んでいた頃でした。

自宅へ帰ると、西日が差す、入院中で誰も居ない
はずの祖父母の部屋で正座をしたまま握りこぶし
を両足に押し付けうつむいている父。

父は泣いていました。
西日が眩しくて表情ははっきり見えなかったけど
すすり泣いて涙がポトポトと握った拳に落ちてい
くのが見えました。

生まれて初めて見た父の涙。


その時思ったんです。

”私、ちゃんと愛されてたんだな”って
 


その時の父の涙を・・・私は一生忘れません。



それからまた何度かの季節が巡りました。


中学を卒業して間もなく家を出た私。
それ以来、両親と暮らしたことはありません。
私は北海道、父は再び転勤で両親や弟達は関東へ。


私は色んな仕事をしながら世間に揉まれながらも
両親には頼らず、何とか暮らしていました。


暮れも押し迫ったある年のこと。母から電話がありました。当時、夜の仕事をしていた私。
昼間は寝ているので電話に出ないことが多かったけど、めずらしく受話器をとりました。


「何?こんな時間に、なんか急な用事?」
怠そうに母に言いました。

「もしもし・・・」
「・・・・・・・」
電話の向こうで母は泣いていました。


「え?何?なんで泣いてるの?何なの?」


「お父さん癌だって」
「余命3ヶ月だって」


そう言って嗚咽しながら母は泣いていました。


「大腸がん」
「もうあちこちに転移して手術も無理だって」


あまりに突然で、頭が真白になりました。
つい2ヶ月前くらいに出張でこっちに来た父と
食事をしたり、飲みに行ったばかりだったから。
あんなに元気だったのに。


一度電話を切りました。


現実を受け止められず、涙も出ません。


数時間後、突然父から直接電話が来ました。



「お!元気か?」いつも通り話す父。 


「うん、元気だよ」


「年末はこっちに来る予定ないのか?」
そんなこと一度も言ったことない父でした。


「年末はないけど近いうちいくよ」


「父さん、肝臓が悪いみたいで、黄疸ってやつで顏
黄色くなって入院することになった、ハハハハッ」


電話の向こうで父は笑っていました。 

「待ってるから、来いよ」
父に不安そうな様子はなくいつもの口調でした。


「酒ばっかり飲んでるから肝臓悪くしたんだよ、
ったく!」私の一世一代の精一杯な演技でした。


とっさに、父は告知されてないんだなって気がし
たから。


仕事が忙しく、実家へ行けたのは2月の中旬でした。


父の容体は手の施しようがなく、医者の勧めで
自宅で療養という形をとっていました。
たった数ヶ月前に会った時の父とはまるで別人、
そう思う程、父は痩せ細っていました。

顏も体も黄疸がひどく土気色になって、痩せた体
に腹水が溜まりお腹だけが異常に膨れていました。

父の残された時間が少ないことを実感しました。
現実を突きつけられ、言葉を失ったけれど父の前
では泣かない!そう決めていたので、必死に堪え
ました。

その日の夕方、会社の部下の方々が2人訪れて来ま
した。母の話だと、仕事の指示や、書類などに目
を通す為に毎日会社の方が来ているのだと知りま
した。

「なんでこんな状態になってるのに仕事しなきゃ
  いけないの?」私が言うと母は


「お父さんと会社の人が決めたことだから」

そう言っていました。


父と部下の人達との会話を聞いていると、仕事の話もそこそこに、世間話したり、時折笑いも交えたり、とても楽しそうに話していました。


その時の私には理解できなかった光景。


数日間実家にいたけれど父はほとんど寝ていました。そんな父を見るのが辛くて、泣いてしまいそうで、私はずっと父の居る寝室へは行かずリビングに居ました。


何のために自分は帰って来たのか、わからなくなっていました。



二人で交わした最後の言葉

北海道へ帰る前夜、みんな寝静まった真っ暗のリビングで私は、何もできない不甲斐なさと抗うことの出来ない運命、父の”死期”が近い現実に押しつぶされそうになり、一人ビールを飲みながら泣いていました。


すると、父はゆっくりゆっくり寝室から歩いて
リビングに置いてある父専用のマッサージチェア
に大きく息を吸いこみながらに座りました。

部屋の明かりは消したまま。

私はどうしていいか分からず黙ってそのままビールを飲み続けていました。


「ビール飲んでるのか?」


「うん」


「早く寝ないと、明日帰るんだろ?」


「うん」


もう父の声を聞いただけで嗚咽が漏れてしまい、私が泣いているのを父は気が付いていたと思います。


「父さんな、色々あったけど人生に後悔は 
  ないんだ」


「・・・うん。」 


「でも・・・」
話す声はか細くて苦しそう。それでも声を振り絞り



「今・・・死ぬのは悔しい・・・」
   父は泣いていました。


少しの沈黙のあと、私の名を呼び


「ごめんな・・・ごめんな」


そう言いながら立ち上がり私のそばに歩み寄り
私の頭をトントンと叩きました。


「飲み過ぎるなよ、早く寝ろ」


そう言ってまたゆっくりゆっくり歩きながら
寝室へ戻って行きました。


父と二人で交わした言葉はこれが最後。
 


翌日、帰る時も力無くただ手を振るだけでした。
そしてそれが私が見た父の生前最後の姿となりま
した。


最期の時


それから二か月後。


母から父が倒れて病院へ運ばれたと電話がありました。


「お父さんに声かけてあげて!」と言って
父の耳に受話器を近づけたようでした。


「父さん!私すぐ行くから待ってて!しっかりして!すぐ行くからね!」


「フゥ・・フゥ・・フゥ」苦しそうな声が聞こえてきます


「き・・・を・・つ・・・け・・・・フゥフゥ・・・・・・・」



父は最後まで私の心配をしていたんだと思います。


その声は長い年月が経っても昨日のことのように
耳に残っています。



その日急いで病院へ駆けつけましたが
父を看取ることが出来ませんでした。


まだ温もりの残るその手を、頬をいくら撫でても
いくら呼び掛けても再び父が目を覚ますことはありませんでした。

葬儀は自宅で執り行いました。
寝室だった場所には祭壇が作られ、玄関から庭を
通り祭壇のあるとこまで綺麗に飾られて、焼香台がおかれました。


まだ現役だったこともあり、仮通夜、通夜、葬儀告別式と本当に多くの人が訪れました。


父は國學院大學の応援団OBだったため、葬儀中の3日間朝から夕方まで、現役の応援団の後輩の方たちが自宅の前でずっと団旗を掲げていました。


告別式が終わり出棺の時は応援団の精鋭歌で送られました。



そして霊柩車は会社へ。 


会社の前にはたくさんの社員さんが待っていて、ゆっくりとクラクションを鳴らしながら前を通りました。

そこには告別式に来れなかったパートさんも並んでいると聞いていましたがその工場のたくさんのパートさん達も皆泣いて見送っていました。皆な口々に

「ありがとうございました」

そう言って泣きながら手を合わせていました。


そして・・・



火葬が終わり、繰り上げ法要のため貸切った仕出し屋さんへ。


そこでは父の下で働いていた多くの社員さんが、父の遺影写真を前に一人ずつ 「献杯!」と言いながら父の遺影に向かい泣きながら話かける部下の方達をたくさん見ました。




”亡くなってからその人の価値がわかる”



そんな話をよく耳にします。

私は家族であり、娘です。

父の価値なんて考えたこともありませんでした。

でも、長い年月が経った今でもこの日には
父の墓前には多くの花が手向けられます。
本当にたくさんの方達に慕われ愛された人でした。


この日が来るたびに、父の偉大さを誇りに思うし
そんな父に似ていると言われることを誇りに想う
私です。 


あなたのように私も愛される人でありたい。




「父さん、あなたの娘に生まれて
良かった」




ありがとう



~父へ贈る言葉~

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