見出し画像

徳川宗春キャベツ回鍋肉

先駆者とか出る杭は打たれる。そういう風は昔から日本にあるようで、人のためになると思っても上下から攻められてしまった殿様を妄想しながら、旬の春キャベツを料理した記録。


材料

春キャベツ  1/4玉
厚揚げ    1丁
豆鼓     小匙1
生姜     1欠け
玉葱     1/4
味噌     大匙2
豆板醤    小匙半分

元禄九年(1696)に誕生した萬五郎が後の徳川宗春。
尾張徳川家三代目の綱政の二十男。
19人も兄がいるのではとうてい家督が巡って来る可能性もないということから部屋住みとして過ごしていましたが、そんな頃に下々の者とも交流があったのかもしれません。
人に好かれる方だったのか、兄の吉通はよく萬五郎と食事を共にしたがった。その兄から一字を貰った萬五郎は元服後に吉春と名乗る。


春キャベツざく切り。

正徳三年(1713)に江戸へ移った後、八代将軍の徳川吉宗に懇意にされる。
吉宗から鷹狩りの獲物を特別に下賜されたり、紅葉山東照宮の予参を命じられる等、一門衆として大事にされていた。
後年、政策を巡って対立することになるのですが、決して個人としての関係は悪くなかった。
通春が江戸に居る間に兄達やその子達は不審な死。通春自身も疱瘡に罹患と尾張徳川家に不幸が降りかかる。一説には将軍位を巡り、吉宗の御庭番の暗躍があったとも言われる。


油揚げと玉葱を食べやすい大きさに切る。

享保十四年(1729)に跡継ぎが絶えた梁川藩三万石を吉宗から与えられて、大名となる。
この時に起こったのが享保の飢饉。
お国入りしていなかった通春は江戸から備蓄の種籾を領民に放出するように指示。これにより梁川では餓死者が出なかった。
翌年、尾張徳川家を継いでいた兄、継友が死去。これにより本家に戻って跡を継ぐ。この後に吉宗から一字を与えられて改名。これにより徳川宗春となった。


豆鼓と生姜を微塵切り。

享保十六年(1731)にお国入りしたのですが、この時の宗春の出で立ちは鼈甲の唐人笠を被り、金縁に裏地は赤い黒ずくめの着物に足袋まで黒。黒い馬に跨るという姿。
通常は駕籠に乗るべきですが、そんな慣例は無視。
大名行列ですから土下座すべきですが、それも無用として自分の姿をアピール。
『温知政要』を出版。これは宗春の施政方針を纏めた本。
宗春の政治方針は行き過ぎた倹約や緊縮は民を苦しめる。法度が厳しすぎると却ってそれを掻い潜る者が出てくる等々。
つまりは規制緩和と積極財政政策そして温情政策と言うべきか。


生姜を油で炒める。

歌舞伎や芝居小屋の建設許可、三か所の遊郭公認。祭りも派手に。
当時は享保の改革の真っ最中。
将軍吉宗は倹約と緊縮財政で幕府を建て直そうとしていた。
幕府がそうしているので、諸大名も右に倣えでしたが、宗春が行ったのは真っ向から対立する政策。
宗春の政策は当然、庶民を喜ばせ、名古屋には人が集まるようになり、現代の大都市、名古屋の基を作ったと言える。
「名古屋の繁華に京(興)が冷めた」とも言われた。
庶民を喜ばせようということか、宗春自身も白い牛に跨り、3メートル以上もある煙管を咥えて練り歩く。ここまで来ると傾奇者。


香が立ったら、玉葱と厚揚げ投入。

犯罪を取り締まるよりも犯罪が起こらない社会を目指して、夜でも街燈、武士達による見回り。
当時、心中事件を起こした者は生き残ったら死罪でしたが、夫婦として生きることを条件に助命。他の犯罪にも髪や眉毛を剃る等の刑罰で済ませて、宗春治世下の尾張領内では死刑は行われず。
参勤交代で江戸出府の際、新築した藩邸を庶民にも開放。
藩祖義直が家康から拝領した幟旗を展示。
このことが幕府から問題視。詰問の使者。

国元だけではなく江戸でも遊興に耽った。
町人を屋敷に入れて、神君から拝領の幟まで飾った。
倹約令を守っていない。

これらの詰問について一応は承ったものの、
国元と江戸で態度を変えることは出来ない。
町人を屋敷に入れてはならないという法度はない。
倹約は上に立つ者がすべきことで民に押し付けるものではないと反論。
ますます幕府から睨まれる。


キャベツ、味噌、豆板醤、豆鼓を投入。

幕府主導の改革に従わないということから老中、松平乗邑は特に問題視。
それどころか尾張藩家老の竹腰正武らも宗春の行動を御家を危うくすると危惧。
幕閣と家老達は結託?
元文三年(1738)宗春が江戸参府に出発した直後、クーデター。
家老達は宗春の政策をすべて無効と宣言。領内混乱を責められて宗春には隠居謹慎が幕府から申し渡される。
「尾張初物」と呟いて、宗春はこの処分を受け入れた。
御三家筆頭の尾張徳川家で初めて処分を受けたという意味合い。


いい感じ。

尾張徳川家は一旦、収公後、改めて宗春の従兄弟に当たる徳川宗勝に与えるという形で再興。この処置で宗春は歴代藩主の系譜からも外される。
名古屋城三の丸に幽閉となった宗春。外出はままならなかったものの、様々な芸事を習い、それなりに悠々自適。
将軍吉宗からも「不足な物はないか」とか「鷹狩りなどが出来なくて気鬱になっていないか」と機嫌伺いの使者。
宗春も吉宗から贈られた高麗人参を栽培していたことから、二人の個人的な関係は決して悪くなかった。
幽閉から22年後、外出禁止が緩和された宗春が菩提寺参拝に外出すると、名古屋の人々は通り道に提灯を掲げて、宗春を迎えたといいます。
名古屋を盛り上げてくれた殿様を決して忘れていなかった。


徳川宗春キャベツ回鍋肉

柔らかく瑞々しい春キャベツがしんなりとして更に柔らかく食べやすい。
豆鼓の風味が中華風味を味わわせてくれる。唐人笠を被った宗春へのオマージュ。
回鍋肉とはいえ肉は不使用。厚揚げがタンパク源。
甘い味噌の中に潜む豆板醤の辛み。
食物繊維やビタミンCをキャベツからたっぷり頂ける。玉葱で血液サラサラ効果。

宗春が行った開放路線ですが、尾張藩の財政は赤字転落。
官も民もよかったという訳ではなかった。
江戸時代、基本的に商業活動には課税されていなかった。儒教では商人は何も生産せず、右の物を左に動かすことで利益を得ている卑しい者と見られていたのが原因。それ故、身分の序列も「士農工商」と最後。
現実には売り手と買い手を仲介し、時には危険も冒して物資を運んでくる商人がいないと経済は回らない。
宗春の改革をもう一歩進めて、重商主義に幕政を転換しようとしたのが田沼意次でしたが、彼も結局は先例大事の儒教や幕府の壁に阻まれる。

上から叩かれ、下から足を引っ張られる形で失脚を余儀なくされた徳川宗春を妄想しながら、徳川宗春キャベツ回鍋肉をご馳走様でした。

この記事が参加している募集

今日のおうちごはん

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?