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織田信雄お菜

福岡でよく食べられているかつお菜。雑煮に入れることもあります。
からし菜に似た風味があると思っていたら、近縁種でした。
ところで、題名にしている人物の名前の読みですが、オダノブオ?オダノブカツ?実はどちらも正解。
偉大過ぎる父親に何かと比べられてしまった信長の息子を妄想しながら、かつお菜を料理した記録。


材料

かつお菜  1袋
出汁つゆ  1カップ(二倍濃縮)
醤油    大匙2
味醂    大匙1
塩     適量
油揚げ   1枚
鰹節    一つかみ
黒摺り胡麻 適量

永禄元年(1558)織田信長の次男として誕生した茶筅が後の織田信雄。
生母は信長最愛の人と言われる吉乃。
信長は子供に変わった名前を付ける人で、長男は奇妙、九男は人、長女は五徳。五徳って煮炊きに使う道具でつまりコンロみたいな物。
次男は生まれた時、髪が茶筅が結えそうだということから茶筅。
次男ということで北畠家に養子に出され、北畠具豊。織田姓に復してから信雄、後に出家して常真。名前が多い。
信雄の読みも公家風だとノブオと読むのですが、本稿では便宜上、オダノブカツで統一します。


適当な長さに切ったかつお菜を塩茹で。

実は次男ではなく三男だったという話があります。
吉乃以外の側室が生んだ信孝が先に生まれたけれど、母親の序列により吉乃が生んだ信雄が次男とされたとか。
同じく吉乃が生んだ長男の奇妙こと信忠が後継者とされていたので、信雄は伊勢国司、北畠家に養子に出される。
失態と言われる行動が多く、愚将とか不肖の子と言われることがある信雄ですが、その最初の躓きが伊勢時代に。


油揚げを短冊切り。

隣国の伊賀に攻め込む。小国で強力な大名もいないので楽勝と思ったのか。しかし伊賀は忍びの国。忍者達の激しい抵抗に遭って撤退。
怖い親父の信長は激怒。親子の縁を切るとまで通告される。
とは言いながら、息子の失態の尻ぬぐいか、織田家の面子を守るためか、10万以上の大軍で伊賀に侵攻。信長にしてみれば、子の失態を勿怪の幸いとして目障りな忍びの国をすり潰した?


出汁つゆ、醤油、味醂を混ぜて沸騰したら、油揚げ投入。

次に失態と言われることは本能寺の変後。
父、信長の弔い合戦は秀吉が成してしまう。信雄は近江まで進軍したものの戦わず。そして明智勢が撤退した後の安土に入り、父が丹精こめた安土城を焼いたと言われます。
織田家の後継者を決める清須会議では、長男の信忠が信長と共に死んでいるので当然、自分が織田家の跡継ぎと期待したものの、宿老の柴田勝家は三男の信孝を推し、もう一人の宿老、丹羽長秀と最大の殊勲者、秀吉は信忠の子、三法師を推す。


茹でて水気を絞ったかつお菜を投入。

こうしたことへの不満もあってか、信雄は徳川家康に泣きついて秀吉に対抗。この時、信雄は秀吉に通じている家老を三人も斬る。家老を三人も自ら始末して織田家は弱体化。それでも家康は秀吉と戦う大義名分が出来たということで信雄と組む。こうして起こったのが小牧長久手の戦い。
ところが、ここでも失態。
折角、いい感じで秀吉と渡り合っていたというのに秀吉に宥めすかされたり、脅かされたりで信雄は家康に断りなく秀吉と和睦。
家康は戦う名分を失う。助っ人を頼んでおいて、日和ったということ。


鰹節を投入。

小田原征伐後、秀吉は家康に北条家の旧領、関東に移ることを命じる。空いた家康の旧領への移封を信雄に命じるが、信雄はこの命令を断る。
父祖伝来の地である尾張を離れたくないという理由。それに加増となる転封を辞退すれば、謙虚な自分をアピール出来ると考えた?
ところが、これが裏目。
却って秀吉の怒りを買う。
すべての領地を取り上げられて、追放。
秀吉にしてみれば、自分に逆らえば、主筋の者でも容赦しないという見せしめに使われたということ。

黒摺り胡麻を投入。

頭を丸めて秀吉に謝罪。どうにか許されてお伽衆に加えてもらう。つまり秀吉のお話相手。
秀吉死後、関ケ原では石田三成に西軍の総大将にと望まれても煮え切れず。
それでもしぶとく生き延びて、江戸時代には上野や大和に所領を得て、大名として存続。家康も信長の子を無碍に扱うことも出来なかったということか。
信長の子で大名として血筋を存続させたのは、信雄の系統のみ。


織田信雄お菜

からし菜に似た風味のかつお菜に出汁がよく沁み込む。同じく出汁が沁みた油揚げがよく合う。水分を吸うためと風味を加えるために入れた鰹節と黒摺り胡麻が更なる美味を加えてくれる。
油揚げで良質なタンパク質を摂取。かつお菜にはカルシウムやビタミンCが豊富。アミノ酸が含まれているので、これ自体からも旨味成分が出ています。抗酸化作用も強く、胡麻のゴマグリナンと共に抗酸化倍増。

これまでに書いた様々な事柄のため、織田信雄は愚将と言われることが多いのですが、これは比べる相手が凄すぎるからです。
第六天魔王信長の息子と思い、父親と比べるから見劣りしてしまうのです。
信長以前の織田家は尾張一国すら掌握していない、守護代の分家。信長が当主になってから急速に膨張。天下統一まであと一歩まで行った。
比べる対象が高過ぎ。
しかも信雄は次男で跡継ぎとも見做されていなかったので、帝王学など学ぶこともなかったので、わからないことも多く、判断に迷うことも多かったことでしょう。
父親が偉大過ぎると子供は大変という見本?
そんなことを妄想しながら、織田信雄お菜をご馳走様でした。

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