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岡倉天心飯

芙蓉蛋、つまりかに玉をご飯の上に乗っけた料理を天津丼或いは天津販といいます。中国の地名がついているものの、実は日本生まれの中華料理。浅草又は大阪の中華料理店が最初に提供したという説あり。
ふと食べたくなり、料理しながら同じテンシンという雅号を持つ人物を妄想した記録。


材料

卵        3個
葱        白い所と青い所を3センチ位づつ
カニカマ     好きなだけ
オイスターソース 大匙1
醤油       大匙3
味醂       大匙2
八角       2欠け
片栗粉      適量

文久二年(1863)横浜に生まれた岡倉角蔵が後の岡倉天心。
天心というのは詩作に用いた雅号で、生前にそう呼ばれることは殆どなく、本人も本名の岡倉覚三をもっぱら使用。
思想家であり、美術運動家。
福井藩の下級武士だった父は藩命により、福井藩が横浜に開いた商館で貿易商となる。そうした生い立ちのせいか、天心は英語がかなり達者になる。
どの位、達者だったかというとアメリカに行った時、
「あんた達はチャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?」とからかいの言葉を投げかけられると、
「あんたは何キーか?ヤンキー?モンキー?ドンキー?」とやり返したとか。

"Are you Chinese, Japanese or Javanese?"
"And Are you a Yankee, a monkey or a donkey?"



微塵切りの葱、適当に千切ったカニカマ、オイスターソースを溶き卵に混ぜる。

東京開成所(東京大学)に進んだ天心は英語が得意だったことから、教授として招かれていたアーネスト・フェノロサの助手を務めるように。フェノロサは美術収集家であったことから、天心も美術の道へ進んでいくことに。
卒業後、文部省に入った天心はフェノロサと共に関西地方の美術品調査。
法隆寺夢殿で秘仏とされていた救世観世音菩薩を200年振りに御開帳。
「実に一生の大事なり。光背に描ける炎の如き。殊に鮮明なり」
天心の感想。
「側面の美しさにおいて、古代ギリシャ彫刻に迫る」とフェノロサ。
他にも知られていなかった宝物を調査して国宝に指定する作業を進める。
仏として秘蔵されていた物を美術のためとはいえ、公にしたのは正しかったのか?と個人的には思います。


フライパンに流し入れて焼く。

明治二十三年(1890)に東京美術学校が創立されると、天心は校長に就任。この時、まだ29歳。早熟な天才と言うべきか。
この学校が後に改称されて、東京芸大となります。
校長としてばかりではなく帝国博物館の美術部長も兼任し、美術運動家として日本美術を世界に発信すべく活動していた天心ですが、思わぬことで足元を掬われることに。
支援者であった九鬼隆一の妻と天心は不倫関係となり、そのことから騒動が起こり、校長辞任を余儀なくされる。
今も昔も不倫騒ぎが起こると、公的な立場まで失うというのは、この国ではよくあること。仕事と色恋沙汰は別に考えてもよいのではないか?公職にある人は聖人君子でなければならない訳でもないだろうと思います。


大きくて引っ繰り返すのが難しい時、フライパン上で四等分にしてそれぞれ引っ繰り返す。自家消費なので、見栄えをそんなに気にしなければ、これで十分。

ただ、この不倫により相手の九鬼夫人は精神を病んでしまう。
これはよろしくなかった。以後、天心は虚無感を抱える。
ただ、生徒や教師達は天心の辞任に反発。教師達も一斉に辞表。
一部の教師は学校に残ったものの、天心についていくことを決めた人達と共に日本美術院を設立。以後は官吏ではなく民間人として日本美術の振興に努めることに。
気まぐれと言うべきか、天心は美術院を人に任せて印度に渡る。そこでの経験などから著作を発表。「東洋の思想」や「茶の本」
これらは英語で執筆。英語が得意だからというだけではなく、世界に向けて日本やアジアの思想を発信したいという思いがあったのではないかと思います。


焼き上がり。醤油と味醂を煮詰めて、水で濃さを調節して水溶き片栗粉でとろみをつけたタレをつけて頂く。

明治四十年(1907)に帰国後、茨城県の五浦に芸術村のような共同体を作り、彼を慕う菱田春草や横山大観といった芸術家達が集まり、切磋琢磨しながら作品を生み出していきました。
天心自身は海岸沿いに六角堂という建物を作り、そこに籠って瞑想することもよくあったとか。


六角堂

現在の茨城県北茨城市、太平洋岸に位置ずる五浦。
天心が籠った六角堂ですが、残念ながら東日本大震災で流出。現在の六角堂は再建された物。
北茨城市では岡倉天心はゆかりある人物として顕彰されていて、記念美術館や分骨された墓も存在。


岡倉天心飯

六角ならぬ八等分にして、ご飯に乗せてタレを掛けて完成。
生地に混ぜたオイスターソースとタレの醤油味がダブルでいい味を醸し出す。
葱のアリシンが食欲を増進させてご飯が進む。
卵の良質なタンパク質がたっぷり頂けます。

大正二年(1913)静養に向かった新潟県赤倉にて、享年52歳にて岡倉天心は死去。
「矛盾を抱えた人物」と親族にすら言われていた天心。猛スピードで人生を駆け抜けたような感があります。早熟な天才は人生のゴールも早かったか。そんなことを妄想しながら、岡倉天心飯をご馳走様でした。

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