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牡蛎の生姜二宮金次郎

牡蛎は末尾にRが付く月が食べごろと言われます。
つまり、September, October, November, December
秋冬が旬ということ。既に春になりつつあるので、もう季節外れ感がある牡蛎を料理しながら、知っているようで知らない二宮金次郎を妄想した記録。


材料

牡蛎 8個
生姜 1欠け
酒  50ml
味醂 50ml
醤油 大匙2
蜂蜜 大匙2

天明七年(1787)に生まれた二宮金次郎。一般的には金次郎と言われていますが、本人の署名は金治郎となっているそうです。諱は尊徳。これも「そんとく」とよく読まれますが、「たかのり」が正しい読み。
相模国足柄郡、小田原領の農家出身。
百姓ですが、二宮という苗字を持っていたということから裕福だったことが窺えますが、豊かだったために父は散財。
金次郎が五歳の時、暴風が原因で酒匂川の堤が決壊。家は流され、田畑も一気に荒廃。必死に開墾に務めるが借金を抱えることに。
弱り目に祟り目というべきか、金次郎が12歳の時に父は眼病に。
この頃、酒匂川の堤防工事の夫役を父の代わりに勤めるが、年少のため十分に働けないことを恥じて、草鞋を作って配布。働けないと嘆くだけではなく、自分に出来ることをした。子供の頃から人のためにということを心がけていたということですね。


生姜を摺り下ろす。

寛政十二年(1800)に父、享和二年(1802)に母が相次いで他界。
まだ幼い弟2人は母の実家に預けられ、金次郎は伯父の家へ。
土地はまたしても酒匂川の氾濫で失われたため、伯父の家で働くことに。
そのような逆境にあっても、金次郎は家の再建を目指していたようで、夜に読書。しかしケチな伯父は照明の油が無駄だし、百姓に学問は必要ないという考え。
そこで金次郎は堤防に油菜を植えて、そこから油を搾って自分で作った菜種油で読書。
田植えの際、余って捨てられている苗を拾って用水堀に植えて、米一俵分の収穫まで得ました。頭を使って、捨てられる物も有効活用。
そのようにして頭を使い、こつこつと余剰米を蓄えていき、20歳の時に生家の再興に着手。
弟を亡くすという悲劇にも見舞われましたが、見事に家を再興させ、地主として小作人を雇い、自身は小田原へ出て武家奉公。小作人に働かせて、自分は楽するということはせず、あくまでも働くという勤勉さ。


小田原城

母の実家の援助、更には二宮一族宗家の再興等を行う。これらの実績が小田原藩の家老、服部十郎兵衛の目に止まり、服部家の家政再建を依頼される。
これにも五年程で成功。千両あった服部家の借金をすべて整理。300両の余剰金まで生み出しました。
これを成功させたのは倹約もありますが、桝の規格を統一させたことも大きい。役人が不正な桝を使い、年貢米を横領することを防いで、実収をきちんと管理させたということ。
考えてみれば当たり前と言えることばかりですが、人間、なかなかそれが出来ていないということ。
こうした実績が評判となり、あちこちの農村から財政再建を依頼され、生涯に再建させた農村は600を超えると言います。


牡蛎を茹でてぬめりを取る。

質素倹約だけではなく、金次郎は優れた金融システムも考案。
五常講と名付けられたもので、参加者が金銭を出し合い、困った者が借り、金利を支払う。借りた者は道徳に従い、早期に確実な返済を求められるという仕組みで、信用組合の元とも言える制度。
小田原藩が出資し、全藩士を対象とする制度にまで発展。
勤勉に手を動かすだけではなく、頭を使って皆が困らない工夫も考えていたということです。


沸騰させてアルコールを飛ばした酒と味醂に醤油と生姜、牡蛎を入れて煮汁が少なくなるまで煮詰める。

茄子を食べた時、まだ夏前なのに秋茄子の味がしたことがあり、金次郎は冷夏になることを予測。村人達に救荒作物として稗を大量に植えるように指示。その年に起こったのが天保の大飢饉。稗を大量に植えていた村はおかげで餓死者が出ず、余剰の稗を近隣の村に分けることが出来たという逸話。経験と眼力鋭い農政家だったことが窺えます。


牡蛎の生姜二宮金次郎

生姜醤油が牡蛎の旨味を引き立てる。ぷりぷりとした身にはタウリンたっぷり。やはり砂糖よりも蜂蜜の方がコクが出る。

昔はどこの学校にもあった二宮金次郎の銅像。最近は見掛けなくなりました。

薪を背負い、歩きながら読書。

この銅像が歩きスマホを助長するとか言い出し、撤去する動きもあるとか。又、座って読書する銅像に代える所もあるとか。
アホか?
勤勉さを奨励するための銅像だというのに、そんなことに文句をつける輩は頭が悪いというか、目の付け所が明らかにおかしいクレーマーに違いない。
そんな戯言に耳を貸して撤去するのもおかしなことよ。
ただ、この銅像ですが、事実の金次郎とは違うとか。
実際は薪を運びながら、読書ではなく諳んじていた。つまり覚えようとすることを考えたり、ぶつぶつと口に出していたと言われています。ただ、それでは銅像になりにくいので、わかりやすく読書にしたのでしょう。

二宮金次郎の銅像が撤去され、その存在も忘れられようとしているのは日本人の美徳である勤勉さを消してしまおうとする陰謀ではないか?
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」
金次郎の言葉ですが、きれいごとではなく実質が伴わなければ、何の意味もない。つまりは透徹した現実主義者だったことが窺えます。
「二宮尊徳には一度会ったが、至って正直な人だったよ」と勝海舟は語っています。
安政三年(1856)に亡くなった二宮金次郎。後年には幕府の直臣になっていたので、御家人だった勝海舟とも会う機会があったのでしょう。
勤勉、そして正直な人だった二宮金次郎尊徳を妄想しながら、牡蛎の生姜二宮金次郎をご馳走様でした。

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