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巌流島豆腐チャンプルー

スーパーで珍しい食材を発見。

島豆腐

沖縄名物ですが、大和の豆腐は大豆を砕いた生呉を煮てから豆乳とおからに分けて、にがりを加えて作りますが、沖縄の製法は生呉の段階で豆乳とおからに分離、にがりを加えてから煮固めるという違い。
製法の違いからか、大和の豆腐よりも固く、崩れにくい。
この島豆腐を使って豆腐チャンプルーを作りながら、不定期に更新している大河妄想料理、二天記を妄想した記録。


材料

島豆腐 1丁
卵   2個
ゴーヤ 半分
枝豆  鞘付きで50グラム
胡麻油 適量
醤油  大匙1
黒胡椒 好きなだけ
鰹節  一つかみ

「遅いぞ武蔵。故意に約束の時間を違え、相手を苛立たせるのは汝のよく用いる兵法だが、今日はその手に乗る巌流ではない。いざ来い、武蔵」
二時間も遅刻してきた武蔵に言い放ち、抜き放った刀の鞘を投げ捨てる小次郎。
「小次郎、敗れたり。勝者、何ぞ鞘を捨てん。鞘は汝の天命。そなたは自らの天命を投げ捨てたのだ」

我が師、宮本武蔵の決闘人生最大のハイライト、巌流島の決闘。大まかにこういう風だったと一般的にイメージされています。
これも多分に吉川英治の小説の影響。


半分に割ったゴーヤの種とワタを取り、1センチ巾に切る。

以前にも書いたことがありますが、宮本武蔵は天下を狙った戦国武将でもなく、優れた書物や絵画を遺した文化人でもない。(五輪書とか水墨画を遺してはいますが)
決闘した相手、佐々木小次郎に至っては敗れたということに加え、遣ったという兵法、巌流も伝わっていないので実像は不明。武蔵と決闘した時の年齢も17歳から老人だったと諸説あり。
決闘の経緯自体も、小説等で知られている話とはまるで異なる話も伝わる。


島豆腐を食べやすい大きさに切る。

決闘が行われた慶長十七年(1612)、豊前国の領主は細川忠興。
この頃はまだ一国一城令は発令されておらず、豊前にも幾つかの支城。
当時は舟島と呼ばれた巌流島がある関門海峡に突き出した門司にも城があり、沼田延元という人物が城代。
その沼田家に関連する出来事を記した「沼田家記」という書物に、巌流島の決闘についての記述。


溶き卵を炒めて、1/3熟位になったら取り出しておく。

武蔵と小次郎、双方の弟子がどちらの師が強いかで口論。
そこで師匠同士が戦って雌雄を決しようということになったのが、武蔵と小次郎が決闘するきっかけ。
決闘自体は定説通り、武蔵の一撃で小次郎は敗れて倒れる。
それを見届けた武蔵は島を去る。
その後、小次郎は死んでいた訳ではなく起き上がる。すると島に隠れていた武蔵の弟子達が小次郎を袋叩きにして殺害。
決闘後の武蔵は門司城に匿われた後、鉄砲を持った護衛を付けて、当時、豊後の杵築にいた父親、無二斎の元へ送り届けられた。
これが「沼田家記」に記されている決闘の顛末。


ゴーヤを炒める。

下関側にある彦島には弟子待という地名があります。この地名の由来は、決闘の後、下関側に戻って来ると思われる武蔵を小次郎の弟子達が待ち伏せしていたという伝説からきている。
どちらの弟子も師匠のために過剰なことをしている?
と思われるのですが、どうやらこの決闘の裏側には細川家の内部事情が深く関わっているという話。
詳しくはこちらへどうぞ。↓


島豆腐と黒胡椒を投入。

つまり佐々木小次郎が邪魔になった細川家が決闘にかこつけて始末することを企んだ。武蔵が勝って小次郎が死ねば最上。
武蔵が敗れたとしても、武蔵の弟子ということにした細川家の武士達が小次郎を始末する。そんな絵を描いていた?
この計画は半ば成功。武蔵が勝利。しかし小次郎が蘇生してしまったので、隠れていた者達が出て来て、小次郎にトドメを差した。これが隠された決闘の裏面ではないか?
前掲の記事で触れている原田夢果史や作家の笹沢左保もこの説に沿って小説を執筆しています。


卵を戻し入れ、枝豆と醤油を投入。

小倉と門司の境に手向山という丘陵。
ここは江戸時代、細川家の後に小倉の領主となった小笠原家に仕えた武蔵の養子、伊織が拝領した土地であり、山頂には小倉碑文と呼ばれる巨大な石碑。
これは伊織が偉大な養父、宮本武蔵の生涯の事績を刻んだ顕彰碑。
この石碑にも巌流島の決闘に言及した部分があり、そこには「両雄同時相会」と刻まれています。つまり武蔵と小次郎は同時に島にやって来たということ。武蔵が遅刻したとは書かれていない。身贔屓?それとも武蔵の遅刻癖は創作?
また、決闘の後、舟島は敗れた小次郎の流儀を取って巌流島と呼ばれるようになったと記されています。
敗れた方の名前が島に付くというのは判官贔屓か?それとも地元では何となく決闘の真相が噂され、闇に葬られた小次郎への同情が強かった?


鰹節を振りかける。

4メートルという巨大な小倉碑文ですが、余談ながら、この下には武蔵の遺骨が収められているという話もあります。
六十余の決闘を行ったと自ら記している宮本武蔵、それこそ小次郎の弟子や縁者を始め、多くの人から恨みを買っていたことでしょうから、遺骨の所在がはっきりしてしまうと墓が荒らされる恐れがあったので、巨大な石碑で蓋をした?


巌流島豆腐チャンプルー

チャンプルーと言えばゴーヤだろうということでゴーヤと卵を合わせた逸品。
枝豆は余っていたので入れました。
島豆腐はしっかりとしていて崩れにくい。これは炒め物にはぴったり。
鰹節が絡んだ醤油がいい出汁を醸し出す。島豆腐自体にも微かな塩味。
島豆腐と枝豆、卵からトリプルでタンパク質補給。
ゴーヤはビタミンC豊富で、余分なナトリウムを排出してくれるカリウムも含まれる。むくみ予防になるということ。

巌流島の決闘の時、宮本武蔵は29歳。これを最後に命の遣り取りになる決闘からは身を引いた。
これは大名家の陰謀に知らぬ内に利用され、図らずも殺し屋の役割をやらされた後悔もあったのかもしれない。
そんなことを妄想しながら、巌流島豆腐チャンプルーをご馳走様でした。

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