数字として見られ得ない人間などいない

よく「(創作・表現行為に携わる人間などが)他者を数字として見ることはよくない(相手を人間として尊重していない)」という言説がTwitter等でバズっているのを見かけます。
俺は他者を一度たりとも数字として見たことのない人間などいないと思っていますし、いるとすればそれはよほどの聖人君子以外ありえないでしょう。数字の大小を重視することが即座に他者を人間として尊重しないこととイコールで結びつく感覚というものは今一つ理解しかねる部分がありますし、多少なりとも成功したいのであれば尚更「他者を数字として見る」ことは避けられないとも思っています。

「お前は『人間』に値する存在か」

誰しもが「数字」や「モノ」ではない一人の人間として尊重されるべきであるというのは言わば理想論に過ぎません。少なくともかつての(あるいは現在も)俺の世界観においてはそうでした
自他の区分がある限り人は「数字」や「物体」や「背景の書き割り」として見られることから逃れられず、それならまだいいほうで「存在そのものが『我々の社会』にとっての罪悪である」とされることさえある。
意思や人格を持った一個の「人間」として見てほしいのであれば相応の対価を支払い続けねばならず、それができなければ「人間」として見られることはありえない。
それが学校や家庭といった今まで俺が過ごしてきた環境の中で学んできたことであり、それらの場所において俺は「人間」として見られるに値する存在ではなかった
正直なことを言えば「自分がいついかなる場合、場所においても人間扱いされて当然である」と思っている他者を見るとその絶対的な自信はどこから生じるんだ?と感じていますし、近頃よく言われる『VTuberだって人間なんだ』というのもだから何?と思わざるを得ない部分はあります。自分が人間として見られたいだけなら『VTuber』を主語とする必要性は薄いしそうと言えばよいのに……と思わなくもないです。

結局何が言いたいかといえば

「人を数字として見る」ことは悪いことではないし、「相手を人間として尊重しない」こととイコールでもない。
なので、あなたがそういった考え方を基本とする人だったとしてそれを「改める」必要などないのです。

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