「意外性の搾りカス」と「カビの生えたゴミ」の狭間で

 Twitter上で興味深い話題が挙がっていました(が、この記事を書いている間に引用しようと思っていた大元のpostが消えていました)
 大元のpostでは主に「このキャラクタ/シチュエーションなら次はこうなるであろう、というパターンを敢えて故意に外すストーリーでバズりを狙い、そして実際にバズる漫画/イラスト等」を指して「意外性の搾りカス」と表現されていましたが、その言葉から思い浮かびうるものは挙げられているようなものの他にも個々人の中には割とあるよね、とも感じています(が、俺が『意外性の搾りカス』のように感じた/感じているものの話は今回の主軸ではないし、無用な争いを発生させたくないので今回はしません)。

 あくまで俺個人が「意外性の搾りカス」の話題を受け考えていたこととして重要なのは「意外性の搾りカス」という概念単体ではなく、こちらのpostにおける「カビの生えたゴミ」も含めた考え方です。

 俺自身は物語性のある創作物の中でいわゆる「王道」に近い要素や展開が出てくれば出てくるほど自分の中での評価が上がっていくタイプの受け手であるという自認があります。
 ですが受け手ではなく作り手側の考えになると別で、例えばゲームのストーリーに関するアイデアを纏めているうちに、それがストーリー展開そのものや主要なテーマ的に「王道」から逃れ得ないものになってしまい、
古のツクール系コミュニティの中での「コテコテの王道はウケない」「テンプレをなぞっているだけ」といった言説を思い出しては「このままいっても『カビの生えたゴミ』にしかならないのではないか?」「今まで自分がよい『王道』だと思って摂取していたものが実は『カビの生えたゴミ』であり、自分はその再生産をしようとしていただけなのでは?」と考えてしまうこともありました。
 あるいは、ともすれば「意外性の搾りカス」と形容されうるものであったとしても「カビの生えたゴミ」ではないものを生み出せている他者に対する一種の羨望が俺の中に無いわけではないです。
(俺がイラスト・ドット絵などの作風に影響を受けたようなタオルケットシリーズやその影響下にある『かわいいキャラクタと凄惨な性・暴力・ゴア描写のギャップ』を売りにするようなゲーム群だって人によっては『意外性の搾りカス』といった評価をされうるもので、それでも俺にとって『カビの生えたゴミ』ではないことは確かなので)

 ただそうした思考とは別に「意外性の搾りカス」にせよ「カビの生えたゴミ」にせよ特定のものを叩く際の便利な棍棒になってしまうことについての懸念はあります。
何せインターネットは「真面目系クズ」などの例を挙げるまでもなく何かに対して否定的な語句ほど定着しやすいものです。なので俺は今回のようにどうしてもその語句を用いる必要がある場面以外でそういった言及をすることはしないでしょう。

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