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レシピ11:与えることで幸せになる。

1.幸せの十分条件


 もしも幸せかどうかと尋ねられたら、なんと答えるだろう?
 さらに「理由もあわせて答えなさい」と意地悪く問われたとしたら、こう言えばいい。

「理由のある幸せなんて、本当の幸せではない」

 そう。
 幸せには、十分条件があるわけではない。
 高価な装飾品や贅沢な食事、絶世の美人、桁外れの残高欄などの諸条件を満たせば、必然的にもたらされるものではないのである。

 持たざる者からすれば、持てる者は幸せなんだと思うだろう。
 しかし、所有欲は、食欲などと同じく脳の報酬系の作用ではあるが、扱うのが記号でしかないため、満足することを知らない。(これは承認欲求も同様である)
 ゆえに、持てる者は、常に持たざる者でありつづけるしかない。
 そこに幸せは存在していないのである。

 では、所有以外の、状態や行動などで幸せを定義する方法はどうだろう?
 要するに「生まれてきただけで幸せ」とか「明るい笑顔が幸せを引き寄せる」的な、スピリチュアルなアレである。

 しかし、これも残念ながら十分条件にはなりえない。

 そもそも幸せとは「ラベル」でしかない。
 それは自分自身の心理状態に対する表現であって、事後的に「幸せである」と宣言されるものなのだ。

 つまり、十分条件があって、それを満たすことによって幸せになるのではなく、自らの状態を診断して「幸せである」と承認する行為なのだ。

 この事実から、逆説的な表現ではあるが、幸せになるための秘訣も導き出される。
 それは「幸せになろうとしないこと」である。

 なぜか?
 まず「幸せになろうとする」ということは、目標に向かっての継続的な意志だということ。そして、幸せは事後的に承認されるものであり、現在進行形の途上においては生じえないということ。ゆえに、幸せになろうとすると幸せになれない、という結果が生まれる。

 幸せになるためには、幸せを求めてはいけない。
 チルチルとミチルがさまざまな場所をめぐり、それでも手に入れることができなかった青い鳥。しかし、自宅に戻ると、飼っていたキジバトが青い鳥だったことに気がつく。
 幸せとは、求めるものではなく、常に「あったことに気がつく」ものなのである。

 なお、メーテルリンクの『青い鳥』は、こう結ばれている。
 青い鳥を手に入れたチルチルとミチル。しかし、ふとした隙に、青い鳥はチルチルとミチルの手を離れ、窓から飛び去ってしまう。
 幸せは、事後的に振り返って承認されるものであり、ゆえに継続することもない。永遠にその手にとどめておくことはできないのだ。
 われわれは、断続的に、幸せの気づきを繰り返していくしかない。

2.幸せの気づきを繰り返すための秘訣


 では、どうすれば「いま、まさに幸せだ」という幸せの気づきを繰り返すことができるのだろう?

 それは、同語反復的ではあるが、自らが幸せだと認識する状態を生み出すこと、である。つまり幸せを帰結しうる行為をなすということになる。

 ここのポイントは「自らが幸せだと認識する」という点である。
 一人ひとりの生まれ育った環境が違う以上、幸せの定義には個人差がある。のんびりと漫画でも読みながら自宅でゴロゴロするのが無上の幸せだという人もいれば、とにかく誰かと一緒にいて大騒ぎしていないと気が済まない人もいる。そのそれぞれで選択すべき行動は異なってくる。

 しかし、その一方で「ヒト」という種に共通する普遍的な特性もある。
 それが「社会性 」である。
 アドラー心理学では「共同体感覚」と呼ばれるものにあたる。

 ヒト、すなわちホモ・サピエンス・サピエンスは、基本的に群れをつくり、集団で生活する動物である。ヒトの根底には、社会性への志向がひそんでいる。
 つまるところ、ヒトの存在において社会は必要不可欠なものであり、社会に受け入れられている感覚こそが、幸福感の源泉となるのである。

 幸せは、社会のなかにある。
 ゆえに「幸せを帰結しうる行為」とは、社会への参加意識を感じさせてくれる行為、つまり「貢献」にほかならない。
 すなわち、幸せの気づきを繰り返すためには、社会への貢献が必要だということになる。

 貢献といっても、奉仕活動や寄付を推奨しているわけではない。
 国や民族、地方自治体だけでなく、われわれは、さまざまな集団に所属している。たとえば家族であり、学校や職場、もしかしたらマンションや町内会といった共同体もあるだろう。
 反社会的な集団でないかぎりは、そのいずれもが「社会」である。
 つまり「貢献」とは、共同体の他のメンバーが喜ぶであろう行為をプレゼントすることである。

 なんでもいいのだ。
 お金なんかかけなくてもいい。
 たとえば、帰宅したら玄関で靴を揃えるだけでもいい。もしくは、すれ違うときに足を止めて、道を譲るだけでもいい。

 仏教では、施しを与えることを「布施」と呼ぶ。
 一般的な用法では、金銭を納めるイメージがあるだろうが、金銭などの物質を与える布施は「財施」と呼ばれ、それ以外にもさまざまな種類の布施があるとされている。そのうち、なにも所有していなくても行える布施として「無財の七施」というものがある。

1.眼施: 優しい目つきで接する
2.和顔施:笑顔で接する
3.愛語施:思いやりのこもった言葉を遣う
4.身施:行動で奉仕する
5.心施:周囲に心を配り、共感する
6.壮座施:居場所を譲る
7.房舎施:居場所を提供する

 「無財の七施」では、笑顔や優しい言葉も、立派な布施だという。
 社会への貢献においても、同様である。
 特別なことをする必要はないのだ。
 共同体をシェアする仲間を尊重すること。たったそれだけのことである。

3.反応を求めない

 1つだけ注意がある。
 それは「社会からの反応を求めてはいけない」ということだ。
 誰かのために行動していると、ついつい、感謝の言葉なんかを期待したくなる。だが、見返りを期待した行動は貢献にはなりえない。単なる取引である。

 たとえば、ゴミを拾っていると、次第にポイ捨てする人たちが許せなくなってくる。だが、そもそもポイ捨てする人がいるから、ゴミを拾っているはずではなかったか?
 いつのまにか自分の行動を尊重するよう周囲に求めたくなってくる。
 それこそ個人的な承認欲求にほかならない。

 あくまでも目的は、共同体を構成するメンバーに喜んでもらうこと。
 ターゲットは自分自身ではないのだ。

 共同体の一員として社会参加することで、われわれは、ヒトとしての幸せに気づくことができるようになる。

 求めれば、幸せは遠ざかる。
 求めるのではない。与えるのだ。

 それが、餓鬼道を抜け出し、幸せへとたどりつく、たったひとつの冴えたやりかたである。


本稿のまとめ
・幸せの十分条件は存在しない。
・幸せとは、事後的に承認されるものである。
・幸せになるためには、幸せを求めてはいけない。
・幸せとは、あったことに気がつくものである。
・幸せは、継続しない。
・幸せは、社会のなかにある。
・ヒトの根底には、社会性への志向がひそんでいる
・社会に受け入れられている感覚こそが、幸福感の源泉となる
・幸せの気づきを繰り返すためには、社会への貢献が必要。
・貢献とは、共同体の他のメンバーが喜ぶであろう行為のプレゼント
・見返りを期待した行動は、貢献にはなりえない
・求めるのではない。与えること。
・与えることが、幸せに気づく、たったひとつの冴えたやりかた。

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