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途絶えた窯の前にて

晩夏とはいえ空は高く蝉の声が耳を聾するほどに鳴り響いていた。僕は首筋につたう汗と背中に張り付くワイシャツを気にしながらゆっくりと坂道を登っていく。
人がすれ違うのが精一杯の小道は左右の家の軒がせまり心地よい日陰をつくっている。片隅の草むらには大ぶりな陶製の壺などが無造作に放り出されていて、いかにも長い間焼き物を生業としてきた土地の風情を見せていた。

あまりの暑さのせいだろうか、それともそもそも人がいないのだろうか。往来の途絶えた小道をとぼとぼと登っていくと、どうしたってそこが終点といったような様子でおもおもしく古るさびた構造物が現れた。巨大な登窯(のぼりがま)だ。

国の近代産業遺構に指定されたこの登窯はとても大きくて、確かにかつてこの土地の中心的存在であったことを感じさせる。一つ一つ個性を持って焼く芸術作品ではない、生活に必要な品を多量生産する迫力と大雑把さをあわせ持つ「近代産業的」な気分が今も漂い出している。明治期に建設された遺構というのは大抵こういう雰囲気を醸してくるのだがそれが時代の背景であったのだろう。人も、建物も時代からは逃れられない。

中を覗くと窯の内壁一面に釉薬が幾重にも焼きついてそれ自体が一つの焼き物と化している。こうなるには百余年の歳月が積み重なったのだ。今はこうして僕のようなもの好きが時たま眺めにくるだけの絶えて火も入れられないこの窯の前で、かつてずっと火を絶やさないよう火口を見つめ続け、槇をくべる職人がいたはずだ。彼の努力や、思いや、苦しみは百年の歳月を経てすべて空に還っている。そして僕はその余韻をうっすらと感じながら夏の終わりの中に立ちつくしていた。 -愛知県常滑にて