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随想好日「そうだ。。。美術・芸術・文藝だけの言葉の作品集を遺そう !」

 そうだ。。。美術・芸術・文藝だけの言葉の作品集を遺そう !
今更人様に好かれるために宗旨変えをするのも愚かしい。私の場合はむしろ疎まれめんどくさがられるぐらいが丁度良いか~と感じるところもある。開き直るつもりもなく、正直なところなのだが。極めて単純に申し上げれば、わが道を往くということであり、わが道に今更復路無しということに過ぎないのである。

 その上で申し上げ、書かせて頂くが__________わたしの書く美術・芸術・文藝に関連した原稿の着想であり着眼点は、"別格である"との自負を持っている。これは自画自賛した別格という意味ではないので読み方に気を付けて欲しいところだ。

 お蔭様をもちまして。私の書く"関連原稿"のいくつかは本チャンのプロを本気にさせており、本チャンのプロたちからの言葉を引き出している。それもいずれ劣らなぬ一流どころだ。お目に留めて頂けたのだろう。感謝の言葉を並べると尽きない。
 特にM氏から頂いた数々の言葉や叱咤は私にとっては"褒美"以外の何物でもないと思っている。わざわざご自分の出版物を介して発信を試みて頂けているのだ。わたしにとっては僥倖以外何物でもない。

 そういう本来は素人には目もくれないような人たちから言葉を引き出すだけの力があるという話しだ。ここは引けないところであり、当人たちが分かっていれば良い話しである。
 同時にそういう一流どころは、持って回った言い方をしないという特徴がある。ストレートに本気を見せてくれる。こういうところが一流と三流・四流の違いだろう
 普段は素人を相手にしないが、これはと目に留まったものには本気を見せる。恰好が良い。しかしナンチャッテは違う。以て回るのであるw

 当然のことだが自分を一流とは呼ぶつもりもないし、他人様から呼ばれることもない。何故なら根を張る場所のない根無し草に他ならないからだ。

 の世に存在するものには概ね本流というものが存在する。とくに学術的分野と密接な関りを持つ存在には本流が存在する。傍系傍流と云われるものは概ね本流から枝分かれしたものだ。従って私のような、どこにもどんな流れにも属さぬ者が、どれほど斬新で独創的で真理を衝いたものを発表しようと、それが本流の流れを変えることは無く、一流となることは無い。これがひとつの現実である。

一流とは属すべき本流においてのみ存在し得ると理解しておいた方が良いだろう。 

 個性とはある一定のルールであり、一定の枠組みに嵌めてなお伸びようとするものを云う。ルールを度外視し感性のみに頼ったもの総てを個性と呼ぶには抵抗も持つ。本流とはそれがより厳格に担保された世界なのだ。

 私の場合はある種"傍若無人"の乱暴者の謗りをうけることも、ここまで書いてきたことに倣うのであれば当然とも思える所以となろうか。独善という言葉を使いたい御仁もおられるやもしれぬが、これはまた私の解釈がチョイと違うところであるのだが________ここではまずは先に進む。

 
て、ではそれをなんと呼ぶか__________それが、異端である。

遜、自惚れ……良いのだよ。それはそれで。私の場合は。他人様が何を思うかではないのだから。当人同士が分かっていれば良いことなのだ。そしてその作品が当人同士の中、記憶として紡がれてゆけばそれで良いのだ。同時に「ほう~そこを解かっていたか」そう感じて頂くことがわたしの恩返しでもあるのだ。

 その恩返しの為に出来ることをしようと考えた時、私に今出来ることは、美術・芸術・文藝に特化したリサーチ作品集を遺すことぐらいだろう。凡てを独学で、時間と書籍と足と感性だけで自分の世界を遺した人間として、ご縁を頂けた皆さんに楽しんで頂くことが目的である。幸いブログにもとんでもない数の原稿が眠っている。関連原稿を抜き出し、磨きを入れればそこそこのものにはなるだろう。そこに関連した小説を挟み込もう。エセーも綴じよう。ちょっと楽しそうに思えてきた。年内に仕上げてみたい。

いつの時代も、異端が正統との評価を得ることは未来の歴史に頼るより仕方のないことなのだが、異端者というものは、概ねそんな恣意的なものには拘らないのが通常であるのだが、そんな異端でも気に留めていただけた皆さんには感謝しているのである。

私の作品群が「文学」と評価されることは無いだろう。当然なのだ学問なのだから。学ぶ者たちのために存在する。それが本流である。自分で作品を仕上げる決意をしたころから私は"文学"という言葉が使えなくなってしまったのだが、それは悲しい反面、踏みとどまれた自分に胸を撫で下ろすのである。


なんらかの特異・特別な発展領域・発達領域を延ばしたいと考えておられる人々に申し上げるとするのなら、根を張る場所はどこでも良いし、何でも良い。ただし本流であることが肝要である。まずは本流に身を置き学ぶことだ。学びに近道はないが本流は"ゼロ起点"を持っている。これは学ぶ上で時間の不毛な消耗を抑えることが出来ると知っておいて損はない。

さもなくば既存としてこの世に存在しないものを自ら学問として構築する必要があるだろう。これは中々にメンドウクサイのである。


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