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随想好日『千円にみる、たかがとされど』香港編

シェん円~しぇん円、1000円 ! !
団体のお客様を連れ、駐車場に留め置かれたバスへと戻ると、年端もいかない子供たちが、首にぶら下げたズタ袋から原色に染め抜かれた扇子のようなものを取り出し、それを両手で開くと風を送るそぶりを見せ、シェん円~しぇん円、1000円 !と口々に叫んでいた。
 気の利いた口上などは必要ない。三つで1000円とか五つで1000円などという複雑な言い回しは出来ない子供たちのこと。扇子を束ねて頭の上に掲げながら1000円という呪文を連呼する。
 この子達に1000円の価値は判るのだろうか。この子達はその中からいくらもらえるのだろうか。わたしは行くたびにそう感じていた。
中国人現地ガイドに窘められたところで怯むものではない。粗末な身なりの子供たちはバスの窓の下まで駆け寄りながら"ノルマ"を果たすことに忠実だった。

香港・香港島に2000年ころまで存在したタイガーバームガーデンの駐車場。タイガーバーム(虎標萬金油)という、かつて一世を風靡した軟膏薬があったのだが、その売り上げで巨億の富を得た胡文虎が作り上げた公園だった。
その昔、この公園には"スリ"を生業とする一派と、物売りを生業とする一派が共存していた。スリを生業とする一派の主力も子供達だった。数人のグループで活動する。狭い洞窟のような通路が彼らの主戦場だった。
ターゲットは老婦人であることが多かったようだ。3~4人の子供たちがワイワイガヤガヤと老婦人の横をすり抜け前へと移動する。人海戦術、早業だ。
いつの間にか子供たちは消えている。既に時遅し。スラれている。この辺り、当時ヨーロッパに見られたスリのテクニックとは一線を隔していた。香港の方が狡猾であり、長けていた。

 わたしが頻繁に香港や中国を訪れていたのは、今から35年以上前になるだろう。通算で何度行ったかなどは覚えていない。ただ、あの頃の1000円は、かの国の人々が糊口を凌げるだけの価値はあったのだが。今となってはわたしたちが感じる価値よりも低いのかもしれない。
 シェん円~しぇん円、1000円 ! !と叫んでいた子供たちも40代の半ばぐらいにはなっているのだろうか。

てか、日本の今の物価高にみる1000円の値打ちもかなり落ちている。このお盆休み。サービスエリアで入れるレギュラーガソリン1Lが200円……恐ろしい話しだ。

 

アバディーン水上レストラン・ジャンボ

道路の向こうに連なる小高い丘陵地帯のすそ野から中腹にかけて、軒を重ねるスラムが夕日に赤黒く映し出されていた。異様な光景に思えた。その景色だけが山肌に掛けられた画を鑑るように現実感を失わせ、香港の持つ光と影を炙り出すには十分だと思えた。
 目線を右手の海側に移すと、漆黒を湛えた海上には、当時の香港を象徴する名所。アバディーン水上レストラン・ジャンボが煌々としたネオンを湛え海の上に浮かんでいた。黒い水面に落とした色とりどりの影は、自ら闇と虚飾に塗れた歴史を語ろうとでもするかのように波間に揺らいでいた。砂漠で見る蜃気楼が香港のかの地に被る… 。

 それを目にした日本からの団体観光客の口からは、感嘆の声がバスの中広がる。同乗する現地ガイドは、光に包まれた水上レストランの紹介のみに話を留め、丘陵地帯に見えるスラムへと言葉及ばせることは無かった___________。
その両極を天国と地獄と例えることは、如何にも負荷の軽い例えとなろうか。この両極を正確に眺めるためには、間に横たわる漆黒のアバディーン湾の存在を置き去りにすることは出来ない。丘陵地帯に居を連ねたスラムと対照的なジャンボの間を埋めるのは、この淀んだ海であり、歴史の証人という側面も湛えているアバディーンに他ならないのである。

車だまりにバスで乘り込むと船着き場がある。暗かった。異様に思えた。電気があるのは船着き場と車だまりに少しだけ。船着き場の向こうには電気は無く、暗闇に包まれていた。原色のネオンを施したアーチがかけられた送迎船は、粗末な桟橋に腹を寄せたまま留まっている。旅行者達はその船をバックに記念撮影だ。フラッシュは届かない。撮った写真は、概ね人と船だけしか写ってはいない。背景は黒ベタだ。

 数人の係員がリファレンスシートをバインダーに挟み、団体番号を確認しながら現地ガイドとやり取りをしている。日本人の団体観光客は、バスを降り、送迎船へと誘導され、船着き場から海上レストラン・ジャンボへと移動することになっていた。
 暗い船着き場だった。それは見られたくないものを隠すかのように、暗幕が掛けられたように暗かった。

今から遡ること35年~40年ほど前。日本はバブルに沸いた。同時に来たのが海外旅行ブームだった。そして、洋酒ブーム。
「桂林・広州・香港」 「香港・上海・北京」 中国旅行のゴールデンルートは、日本人の海外旅行入門者の人気の的だった。現地のオペレーターとトラブルが起きた際、「何やってんだよ~ったく~ ばっかじゃねぇの」云った瞬間に現地公安当局が飛んできた時代。

「ばっか」も「ばか」も禁句だった時代だ。空港に到着しても、迎えのバスが来ていないことはざらにあった。
 ジャンボに移動すると、係員がレストランの食事テーブルに案内をしてくれる。

ここでも日本人は団体用のだだっ広いホールへと通される。メニューは中華料理らしきものとしか書くことは出来ない代物。
お味は如何でしたか?
聞かないでくれ。
世の中、知らない方が幸せということは少なくない。
桂林の舟下りでもそうだったが、食材を積んでいる周辺を見たことがある者は、箸をつける気が失せること請け合いであることは間違いない… そう書いておこう。頗るつきに不衛生。この位にしておくことが相応しい。

 当時を思い返すのであれば、まだ白人旅行者が多かった。アフリカ系の旅行者などはほとんど見かけることは無かった。ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そしてバブルに沸く日本。 

 今となっては信じられないだろうが、まだ、日本人がパリのヴィトンで入場規制の対象として憂きめをみた時代であり、フェラガモ本店に日本人が入れないということもあった時代だった。欧米人から見れば金を持った猿… 大袈裟ではない。確かにその程度にしか見られていなかった。また、そんな日本人のツーリストとしてのモラルも低かったことも手伝ったことからして、仕方が無かったのだが。

 その後程なくして、パリのヴィトンから商品が消え、イタリアのフェラガモ本店から商品が消えるという、日本人による「爆買い」ブームが巷間を賑やかした。
 さて… 当時、日本の旅行会社は香港のラウンドオペレーターに、殆どバジェットを支払っていなかった。所謂、お土産屋さんツアーが主流化しており、オペレーターやガイドの利益、利用施設への利益はお土産屋さんからのコミッションで成り立っていた。

残念ながら、団体で香港旅行に行き、美味いモノを食べた経験がある人は多くは無かろう理由はこの辺りにある。
 ダイヤモンドの工場直売店、革製品屋、民芸品屋、免税店、お茶屋さん、一日に数件は回り、店に入ると出発時間まで玄関にはカギがかけられ、入り口には店舗スタッフという名の屈強なガードマンが扉を固めた。
 古き良き時代であり、みんな逞しく生きた時代。生き馬の目を抜くという形容が相応しい時代。

スラムを見ても口には出さず、虚飾に彩られ、文字通りの香港観光フラッグシップとなったジャンボを眺め感嘆を漏らした時代。
そのジャンボも、コロナには勝てなかったようだ。いや… 本当にそうなのだろうか。多くの富裕者が香港を離れ、カナダ、オーストラリア、イギリス、アメリカの国籍を取得し、母国をあとにしている。
一つの中国をつまらぬものと考える人たちにとっては、自らその歴史に終止符を打つことを選択したとしても寄り添えるのだが。

 アバディーン・水上レストラン・ジャンボ。
 2022年6月営業終了

多謝師兄

皆様にとりまして、ステキなお盆の休暇となりますことをお祈りいたします。  世一

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