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美大を諦めた、高校生の自分へ伝えたいこと

「26歳、人生の転機説」

なんてものが、あるらしい。

世間で所謂"成功者"と呼ばれている人は、「26歳」という年齢で何らかの「転機」を迎えていることが多い、という。

そんな希望とも呪いとも言える言葉に、私は高校生の時に出会ってしまった。

それ以降、心のどこかで「26歳」の自分に期待を抱く私がいた。

「10年後、どんな輝かしい未来を送っているだろうか」と。

行きたい大学に合格して、学業にバイトに順風満帆な大学生活を送って、特に大きな挫折もせず卒業して、そのまま好きな仕事に就いてバリバリ働いて、キャリアを積んでたくさんお金を稼いで、その中で大好きな人と巡り会って付き合って結婚していたりして。

当時、純粋な少女が頭に描いた未来予想図には、微塵も汚れなんてなかった。

ここまで読んだ皆さんはお分かりかもしれないが、
こんなドラマのような人生は、現実にならなかった。

私は高校卒業後、地元の国立大学に入学した。
学部は、法学部。

進路を選択する時、デザインやアートに小さい頃から興味があったので、真っ先に美術系の大学を候補の一つとして考えていた。

でもそれほど絵が得意ではなく、むしろ劣等感すらあった私は正直、「デザインで食っていく」という覚悟を持てなかった。

次第に、心の内で、美術系の大学が候補から消えていくのを感じていた。

当時裁判もののドラマが世間を賑わしていて、弁護士という職業に憧れを持っていた私は、次点で興味があった法律分野に進むことに決めた。
困っている人を法の力で救うその姿は、ヒーローみたく格好良く見えた。

「私もこうなりたい」

いや、”なれる”。
将来の自分は、”なっている”。

そう思った。

当たり前に、夢を叶えると信じて疑わなかった。


大学生の私は、弁護士を目指すため、慣れない法律の勉強に精を出していた。
毎日夜遅くまで図書館にこもって、基本書や参考書を読んでは答案を書いた。

(司法試験の受験科目では全くなかったのだけれど)一番面白く感じたのは「知的財産法」の授業だった。

どうすれば芸術作品の著作権を守ることができるのか、創作者が苦しまずに済むのか、考えを巡らすことはとても楽しく、心が躍るようであった。

https://www.arts-law.org

更に「Arts and Law」という団体が、有資格専門家による芸術分野への活動を行っていることを当時知り、芸術分野を専門とする弁護士になりたいと思った。

これだ。

好きなものに、関わって仕事ができる。
諦めなくて、いいんだ。

デザインが好き。アートが好き。
見ているだけでワクワクさせてくれる。

美術系の大学を諦めて、違う進路に進んで「もう私には関係ないのだ」と蓋をしていた気持ちが、溢れる水のように勢いよく飛び出してくるかのようだった。

それからは、私は更に拍車をかけて法律の勉強を頑張るようになった。

すべては、弁護士になるため。
弁護士になって、芸術分野で困っている人を助けるため。

大学3年生では、学部の早期卒業・法科大学院入学を目指すコースに入った。毎日同じ空間で過ごすのは、周りは血眼になって六法全書に齧り付く学生ばかりになった。

そんな生活の中で段々と、私は周りの受験生と比べて、「法律」そのものに対してそれほど情熱を持てない、という恐ろしい感情に苦しみ始めていた。

司法試験なんて、東大や京大に行くほど秀才な人が何千時間も難しい法律に向き合い続けてもなお、合格するか分からない世界だ。そして合格して終わりではなく、そこから更に修習を経てやっと弁護士資格を得て、今度は実務として法律の知識を吸収していくことになる。どの分野を専門に決めるかなどという話は、弁護士としてしっかり経験を積んだ後に問題となることで、そこに行き着くまでには途方も無い努力が必要なのだ。

私にとって、法律の勉強は「弁護士になる」ための行為でしかなかった。
そして、弁護士という職業は「芸術分野に関わるため」の手段でしかなかった。

結局、一生法律に向き合うだけの熱意が、無かったのだと思う。
それだけは、痛いほど分かった。

受験コースを辞退し、法律の勉強を一切止めたのも、ちょうどその頃だった。
小さい文字で書き込みをびっしり入れた参考書も、昼夜暗記に使っていたノートやプリントも、大切に毎日めくっていた六法全書も、全部捨てた。

何もかも中途半端な自分の人生も、
捨てられたらいいのに。

全部捨ててしまいたい。

そう思った。

それから息をつく暇もなく、大学4年生の就活解禁を迎えた。
周りの流れに身を任せるように面接を受け、一般企業への内定が決まった。
デザイン関係にも、法律関係にも縁もゆかりも無い、金融業界だった。

もはや自分がなにをやりたいのか分からなくて、逃げ続けた自分はもう「これをやりたい」なんて言う権利が無い気がして、半ば投げやりな感情とともに一生に一度の”新卒カード”を使い果たした。

就職して、仕事に追われる毎日が訪れてからも、心のどこかでずっと物足りなさを感じていた。
何年も何十年も、このままこの会社でこの仕事を続けていく未来がどうしても見えなかった。
心にぽっかり空いた穴を「まあこんなもんだよね」で無理やり埋めていく。

でも、転職してやりたいことも分からない。

ハードな金融の世界。
辞めていく同期も、一定数いた。

とりあえず、3年働こう。
それから、考えよう。
大丈夫、みんな頑張っているんだから。

そんな風に耐えながら働いていたら、入社3年目の時(上司から不当に罵声を浴びせられたりしていたこともあって)1年間で体重が15キロ落ちていた。

健康診断では「要観察です」と言われた。
「大丈夫なので」と、私は返した。

毎日ほとんど何も口にしていないはずなのに、何故かお腹が空かない。食べれないから、体力も気力も落ちる。職場のフロアへ階段を登るだけで、過呼吸でうずくまることも何度もあった。

頑張らなきゃ。
頑張らなきゃ。

でも、身体はもう限界だった。

程なくして、友人が強引に連れて行ってくれたお医者さんから適応障害の診断を受け、休職せざるをえなくなった。「こんな状態で何で今日まで働けているのか分からない」と言われた。

「草壁さんの仕事の代わりはいくらでもいるけど、草壁さんはこの世で一人しかいないんです。だから、これからは自分の好きなことを、たくさんしてあげてください。自分のために。」

診察室で、泣いた。泣き続けた。
涙が止まらなかった。

休職中、これからどうしたら良いのか、あれこれと考えを巡らしていた。正直、もう同じ職場には戻れない気がしていたからだ。時間がたっぷりあったからこそ、「休む」という選択ができたからこそ、落ち着いて自分と向き合うことができた。

そういえば、デザインとか、アートとか、ずっと大好きだったなあ。

そんな純粋な感情を思い出すのに、
それほど、時間はかからなかった。

色々なことから逃げてきた自分は、もう好きなことを「好きだ」と言う資格なんてない。そうやって、自分の本心に蓋をし続けてきた。
それどころか、いつの間にか、蓋をしていたこと自体忘れかけていた。

何の役に立つのか分からないけれど、とりあえずスケッチブックとペンを買ってきた。おもむくままに絵を描いてみた。もう10年ぶりくらいかもしれない。結構へたっぴだった。

でも、そんなことどうでも良いくらい、
ワクワクが止まらなかった。

美術館に行ってみた。
展示の空間では時間がゆっくりと流れているみたいで、心が洗われていく。真っ白な部屋の中、対照的に目の前に飛び込んでくる色彩豊かな絵画の数々は、私の胸の奥をがっしり掴んでくるようだった。

デザインに関わる本や雑誌に読み耽ってみたり、お金もないのにおしゃれでユニークな雑貨を買ってみたり、気の赴くままに「好きなこと」をやってみた。

これが役に立つから。

これになりたいから。

そうではなく、
自分が好きだから。

何かをやる理由なんて、
きっとそれくらいで良いのだと思う。


それから2ヶ月後、
私は3年間勤めた会社を退職した。

同じ時期に、新しい就職先が決まった。

小さな、雑貨や服飾を販売している会社。
休職中に偶然入って心惹かれた雑貨屋さんのことを、ずっと覚えていた。

自分の好きなものに囲まれて毎日を過ごすこと、
同じ価値観を持つ人とそれを共有できることが、
こんなにも幸せだとは思わなかった。

新しい会社に入社した月、
私は偶然にも「26歳」の誕生日を迎えた。

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あの時、美大を目指す決断をしていたのなら。
「人生の選択」を振り返っては、後悔することも何回もあった。

好きなものにまっすぐ突き進んでいたならば
生きやすい人生を送っていたのだろうか、と。

現に、高校生の時夢見ていたような「26歳」の自分の姿とは、とてつもなくかけ離れてしまっている。

順風満帆な楽しい大学生活とは冗談でも言えなかったし、毎日耐えながら働いていたら休職も余儀なくされたし、貯金も全然ないし(実は、通信制の美大に今年から通うことにした)、おまけに彼氏もいないし友達も少ない。

でも、ひとつだけ確かなことは、
好きなものに囲まれて過ごす今の「26歳」は、
とっても幸せだということだ。

たとえ、「何者」かになれていないのだとしても。

だから、高校生の頃の自分に伝えたい。

「好き」の気持ちを、絶対に忘れるな。

心の中に、大切に、抱き締めておけ。

その気持ちが、きっと
未来の自分を救ってくれるはずだから。

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