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52年のコーヒー

ホメオパシーをやっているのでコーヒーは基本的にあまり飲まないのだけど、旅行に行った時はその土地の名店に行ってみたい気持ちが抑えられない。お店をあれこれ調べて、常連さんに疎まれないかどうかちょっとだけ気にしながら、いそいそと出かけてしまう。


珈琲アローは非常に有名な店なのであまり説明がいらないかもしれない。びっくりするぐらい浅煎りで、ほうじ茶みたいな透き通った琥珀のコーヒー。三島由紀夫や天皇陛下も行幸あそばしたという名店である。良質な豆を少しだけ焙煎して荒く砕き、たっぷり使って淹れている。黒豆茶とかたんぽぽコーヒーみたいな、あっさりして滋味深い味の飲み物が、席に座ると自動的に出てくる。それしかメニューがないのだ。


マスターは80歳を超えていて、お店を始めた頃からほとんど休まずに営業している。52年間でたった20日ほどしかお店を閉めていないそうだ。常連さんにもはじめての人にも同じように声をかけ、自分が愛するコーヒーを喜びをもって提供し続けている。黒いコーヒーは、マスターに言わせると焦げており、焦げたものは身体に悪いという考え。ここで出されるコーヒーは何杯でも飲める優しさ。熊本弁が時々聞き取れないが、口調からマスターの人柄が伝わるみたい。コーヒーへの愛があらゆるところからにじみでるようだ。


またいつこられるかわからないので、おもわずおかわりをした。二杯目に淹れてくれたカップは内側が白く、外側はやさしい肌色だった。「このカップはきれいでしょう、私はこれにコーヒーを入れるたび、きれいでほれぼれするんですよ、本当にほれぼれします」その言葉には誇張やわざとらしいところが全然なくて、心からそう思っていることが伝わった。


自分が人に提供するものにそんなに誇りをもてるなんて、同じひとつのメニューを、50年以上も繰り返してまだそんなふうに思えるなんて。そう思うと、お金にできない価値がこの一杯にこもっていること、それを今ここで私に出してくれたことに対する感謝がとめどなくわいてきた。どうかいつまでもお元気で。長い長いあなたの人生の甘露のような飲み物を、また私が飲むことができますように。「またきてくださいね」とマスターは何度も言った。

読んでくださってありがとうございます。頂いたサポートは、私が新しい何かに挑戦するときに使わせて頂きたいと思います。そのお話は、きっとまたnoteで!