「遠く」のこと

2022.12.7の日記

小さな子どもだった頃、「遠く」がいつの間にかこちらへやって来たのを感じ取る瞬間が怖かった。
昼下がりにふと眠くなってベッドに潜り込み、しばらくして目を覚ます。窓を見遣ると、網戸の隙間から風が吹き込み、薄いレースのカーテンが静かに規則的に揺れている。差し込む日の光は陰りはじめていて、まもなく夕暮れがやってくるのだと感じ取るとき。干したばかりの、乾いた香りのする暖かな布団の肌触り。部屋の隅に現れた薄闇の兆し。窓の外から聞こえてくるはずの音の一切が止んだような静寂の瞬間。

自分がとても老いた人になってしまったかのような、妙に切迫した苦しさのようなものがこみ上げてきて、わっと顔を覆って泣きたくなる衝動に駆られる。でもそうはせず、横になったまま揺れるカーテンをじっと眺めていると、次第に「自分」が戻ってきて、体にゆっくりと血が流れていくのを感じる。そうだ、「遠く」がここに来たんだ、でも大丈夫、「いま」に戻ったから。心の中で自分にそう言って、そっと体を起こす。手を伸ばして、揺れるレースのカーテンをつかまえるようにして窓を閉め、今度はわざと乱暴に分厚いカーテンを引き、バタバタと足音をさせて階段を下りてゆく。「遠く」にはつかまらないぞ、そうだ、犬の散歩に行こう。夜がやってくる前に。

 ルドリゴ・エイナウディの『白い雲』という曲を聴いていると、そんな昔の記憶が鮮やかに蘇ってくる。幼い頃に繰り返しやってきた「あの感覚」を私の体はまだ覚えていて、「遠く」の正体をいまもどこかに探している。
この曲を知ったのは、原明日香さんという女の子が踊るコンテンポラリー・ダンスの映像を見た時だった。あまりに美しくて衝撃的で、言葉を失ってしまった。心がざわざわと騒がしくなって、晴れた日に丘の上に立って全身に風を受けた時のような、「遠く」を自分からこちらへ呼び寄せるような、そんな怖さと切なさがあった。彼女は今年、国際バレエコンクール、ユース・アメリカ・グランプリのプリコンペティティブ部門で最優秀賞を獲得した、信じられないほどの才能を持つ踊り手である。

自由になるために追い求めて手にしたはずのものに、いつの間にか囚われてどこにも行けないような息苦しさを感じるとき。「遠く」から幾度も逃げてきたはずなのに、逃げ切るのではなく自分からそちらに歩みを進めるほうが、「自由」になれるのかも知れない。
ルドリゴ・エイナウディの音楽をまとう原さんのダンスを見て、いつか必ず抱きしめねばならない「遠く」にあるもののこと、そしてまだ手にできてはいない自由のことを思った。

しかし「自由」になれたと思えたとき、いつの間にか「遠く」は自分の後ろに遠ざかっていて、抱きしめることはできず、はるか後ろから吹き付けてくる風になってしまうのかも知れない。

―――[過去から未来への]移行点ではない現在、時間が充足して静止状態にいたっている現在という概念を、史的唯物論者は放棄するわけにはいかない。ほかのだれでもない、かれみずからが歴史を叙述するまさにその現在を、この概念は定義しているからだ。 歴史主義は過去の「永遠の」像を提示するが、史的唯物論者が提示するのは、過去とのかかわりにおいておこなう唯一無二の経験にほかならない。
ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』(歴史哲学テーゼ),鹿島徹訳

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