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誕生日が覚えられない

最低なヤツだと思われてもしょうがないのだけれど、私は人の誕生日を覚えることが苦手だ。


だから学生の頃は、手帳を買い替えたら真っ先に友人の誕生日を書き写していた。
そうしないとどんな問題が起こるかというと、


①サプライズの話についていけなくなる
②みんなでご飯を食べるだけだと思っていた会の最後で、最近誕生日があった子へのプレゼントをみんなが用意しているなか、私だけ何も渡せないという恐ろしい状況がうまれる
③祝われるだけの人として名を馳せることになる


特に②の状況はできるだけ回避したい。
言わずもがな、死ぬほど気まずい。
(妙にリアルなのはすべて実体験だからだ。)

そんなわけで、他の人にはない必死さで私は友人の誕生日を覚えようとしていた。
(なんで私はこんなに覚えが悪いのだろう)
(みんなには普通にできることができないって変だよなぁ)
と、落ち込んだり自分を訝しんだりしながら。


けれど、ある女の子と出会って1発で彼女の誕生日を覚えた私は、悲しいけれど重要なことに気付いた。

私は“誕生日を覚えるのが苦手”なのではなく、
“どうでもいい人の誕生日は覚えられない”のだと。我ながら冷たいというか正直過ぎるというか、受け入れがたい気付きではあったけれど、本当のことだ。

心から大切にしたい人のことは、自然に覚えられる。


そもそも誕生日のお祝いって義務感や付き合いでイヤイヤするものじゃなく、
“貴方が生まれてきてくれて本当に嬉しい!今日まで生きてくれてありがとう。今年も貴方にとって最高の1年になりますように!”
って気持ちから自発的にするものだったはずだ。

いつからか、変わってしまった。


ずっと違和感はあったし、モヤモヤした気持ちが心に溜まっていたけれど、それでも自分がちょっと変なんだと思うことで、無理やり自分を納得させようとしていた。
馬鹿だったなぁと今は思うけれど、当時は必死だったのだからしょうがない。目の前の小さな世界にしがみつくことでしか上手に生きられなかった。

その頃の友人で未だ会っている人は誰もいない。
どんなことを話していたかも忘れてしまった。
つまりはそういうことなんだろう。


自分にとって大切なものに気付くとき、
それまでの自分がとんでもなく愚かで馬鹿馬鹿しく感じてしまうことがあるけれど、
それは前に進んでいる証拠だ。
できればその愚かな期間を挟まずに大人になりたかったけれど、きっと無理なんだろう。
少なくとも、私にとってはこれが最短ルートだった。過去を嘆いて、くよくよしたってしょうがない。トータルでみれば、これまでの時間よりこの先の未来のほうが長いわけだしね。

今週末はあの子の誕生日。
どんな風にお祝いしようか。

ここまで読んでくれてありがとう。

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