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「場について」 いつも今

決まった「こたえ」のない問題の「こたえ」をさがす。
それは、その問題を、こたえのある問題に落として考えることではないだろう。また、こたえのある問題から借りてきた、こたえを組み合わせることでもないだろう。

こたえは何だろうと、考え続ける過程がこたえなのではと、言ってみるものの、それがこたえだったのかとわかるのは、ずっと後になってからのことになりそうだ。

ところで。

「今」というものは、常に動いている。
そのとき「今」だったあのときは、「今の」今に連なるものではあるが、同じ今ではない。
ただ、そのとき見えなかったものが、今見えるかもしれないし、そのときなかったものが今あるし、反対に、そのときあったものが、今失われている。そういうことがあるから、考え続ける「今」というものに、意味が生まれる。

わたしは今、何をしているか。それは確かな経験か。今だからできることか。今しかできないことか。
そのようなことを考えなくても、今を生きることはできる。そう、肩の力を抜いて。

たとえば、わたしは絵を描く。
絵の具を使って絵を描くとき、その絵の具は液体だ。
わたしは絵の具を延ばしたり流したりするが、絵の具は動きの痕跡を残したまま個体になる。

絵は仕上がった。
絵の具は固まってはいるが、それは止まっていない。動きは閉じ込められ、なお動き続けている。

わたしは、そこにいた。その作業の中にいた。

その時そこで何をしていたのか、そこにどのような価値を作ろうとしていたのか、それを読み解く作業は、その場を離れても、これから先も、続けることができるのだ。

いつも、今だから。

(写真:『かがりびばな』(部分)油彩+卵テンペラ(混合技法))

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