つくり上げる場 「場について」
「ここ」とは、どのような場か。「ここ」とは、どのような経験か。
それを確認するために、「自分はここにいる」という感覚を失ってしまった状態を考えてみる。それは、自分がこの場に接地していない、与えられた「場」が、自分の「場」になっていないという感覚である。(自分というものがわからなくなってしまったわけではない。)
場とのつながりが感じられない理由は何だろう。この場が自分にふさわしくないのか、自分がこの場にふさわしくないのか。あるいは、自分と場との折り合いがつかないのか。
行きたくない場がある。そこは緊張を強いられる場で、しかもそこでの振舞い方がわからない。そこでは、わたしは場違いになる。
例えば、それは、中学生だった頃に通った英語の塾だ。表向きは、わたしはそこへ勉強をしに行っていたのだが、実は何をしに行っていたのかわからない。わたしには英語の勉強をしたいという動機はなかったし、その塾の授業について行くこともできなかった。宿題も予習もしなかった。成績が上がるわけでもなく、友だちができるわけでもなく、わたしはその時間、ただ空想に耽っていた。わたしは、そこに居ながらにして、そこには居なかった。
そもそも、なぜ行くことになったのかと言えば、あまりにも勉強しないわたしを見かねた親が、強く勧めたからに過ぎなかった。(親はそれで安心していたのだろうか。)
つまり、誰がどのような目的で設定したのかわからない枠組みに、従えと言われても無理なことがあるということだ。確かに、その枠組みをよしとする人もいる。しかし、その枠組みが本当に意味のあるものになっているのか、そのことを、建て前ではなく、実感をともなった、生きた経験として、自分の言葉で語ることができるのか、疑わしい。
確かに、枠組みがあるということは便利である。けれども、しばしば枠組みを維持することが目的になってしまう。そうなると、枠組みの中にいて、その枠組みに囚われていることに気付かず、枠の外にも世界が広がっていることに気付けなくなってしまうこともあるのではないだろうか。
その枠組みの由来やら目的やらを知っていてこそ、その場を活用できるものだろうに、枠に人を合わせようとしてもうまく行くものではない。人は、それぞれ異なった生を生きている。枠組みも、場所や時間の中で意味が変わっていく。
人はその枠組みとの関係をつくり、その関係の意味付けをして行くことが可能だし、またそうしていかなければならない。それも、絶えず更新していく必要がある。
それが「場をつくる」作業であり、「ここ」を確認する作業である。自分が参加する「ここ」という場は、ただ与えられるだけの環境なのではない。
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