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徒然日記~永徳と信長

狩野永徳、長谷川等伯。
二人について、ここ最近考えている。
もちろん、彼らについて書くため。
特に永徳については、明日、スペースの番組で話す予定だ。

狩野永徳にしたのは、「王道」だから。
「狩野」の一人でもあり、知名度は、等伯よりも上だ。
足利将軍に仕えた御用絵師を曾祖父に持つ、血筋と環境に恵まれたサラブレッド。
二代目である祖父からは、英才教育を施してもらえた。

全ては、四代目総領として、未来の「狩野派」を引っ張っていく存在となるため。
永徳自身も、自然なものとして、それを受け入れていただろう。

そんな彼が、狩野派の若き総領として、将軍・義輝からの注文に挑んだ。

それが〈洛中洛外図屏風〉。
わかき永徳にとっては、重要な一歩だったはず。総領としての腕の見せ所。気合いの入り方も違っただろう。

しかし、クライアントである将軍は、完成を見ることなく横死。
屏風が完成したのは、その三か月後。
受けとり手のいなくなった屏風を前に、永徳は何を思っただろう。

しかし、ぼんやりしている間にも、世の中は、動き続ける。
義輝の弟・義昭を奉じて、尾張から織田信長が京に登ってくる。
彼のために新しく二条城も建ててやる。
しかし、次第に両者の関係がこじれていくと、状況は一変。
朝倉や浅井氏、武田やら、義昭の命で次々と反織田勢力が立ち上がる。
それらへの対応で、信長は、文字通りのきりきり舞い。
しかし、最終的には撃破し、あるいは敵の病死に助けられる形で、片をつけていく。
そして、最後は、元凶である義昭を京から叩き出し、室町幕府そのものを滅ぼした。

京に生まれ育った永徳は、一連の出来事をどう見ていたのだろう。
とにかく、室町幕府はなくなり、将軍はいなくなってしまった。
次の権力者は・・・織田信長

二人の出会いが、いつどのようなものかはわからない。
が、双方ともに鮮烈な印象を残すものだったのではないだろうか。

永徳にとって、信長は、これまでに会ったことのないタイプの男だっただろう。
小国・尾張からスタートし、身内や周辺の大国との戦いを勝ち抜き、一時は由緒正しき将軍・義昭を助けもした。
しかし、合わない、となると、あっさり切り捨てる面も持つ。
古い伝統や権威に囚われず、自分の才と力を信じて進み、新しい時代を自らの手で作ろうとする。

信長との出会いで、永徳がこれまで積み重ね、思い描いてきたイメージは、ふっとんでしまったのではないだろうか。
少なくとも感じただろう。
今まで通りの描き方では、この人は、満足はしまい、と。

そして、信長も永徳の中に、「伝統」の枠に収まりきらないものを見たのかもしれない。
お前が、本当に描きたいもの、本当にやりたいことは、そうじゃないだろう、と。
そして、それをーーー永徳が「今までにないもの」を作り出すのが見たいと思ったのだろう。
もし、できなければ、それだけの男、という話。
永徳は、信長とのこの「戦い」に乗らずにはいられなかった。
家督を弟に譲り、単身で安土に向かう。
これなら、万が一の場合は、自分の首一つで済む。狩野家はちゃんと続き、狩野派も安泰。
この時彼は、一人の芸術家として、信長と対峙していたと言おうか。

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