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もっと生きやすくなればいいね

 はやかわです。酔っ払いました、職場の同期、といっても七年来の友人と呼んだ方がいいのか、いややっぱり友人というのも違うな、カテゴライズできないそのひとと酒を飲んで楽しくなっています。寝る前に書きたいように書き殴らせてください。いろいろ書きます。
 友人というカテゴリってここのところずっとよくわからない、ぼくたち友達だよね、みたいな感覚がいつからかぼくにはなくなっていることに最近気付いた。そのひとはそのひとだ。会話を成立させるために「職場の同期」とか「高校時代の友人」みたいな表現をつかうけれど、興味のあるひとは職場が同じじゃなくたって高校時代が終わったって仲良くしたい、仲良くしたいというか、興味がある。そのひとの人柄を深く知りたいとか、何を考えてるか知りたいとか、そういうことじゃない、ただただ興味がある、この先どうなっていくのか、そのひとの人生のとんでもないモブキャラでいいので、なんとなくでいいので登場できたら嬉しい。
 モブキャラでいいから登場したいだなんてとても傲慢だ、人生の一瞬を通り過ぎただけの通行人Aみたいな人物なんて本当にたくさんいる、ぼくにもいるしみんなにもいる、登場人物のほとんどがそういうポジションだ。なので、大切にしてくれる相手のことは大切にしたい。
 いちばんの友人とか、親友っていうものがいない、きっとたぶんそういうひとも多いんじゃないかと思う、一方で、いちばんの友人や親友だって自信をもって言えるひとだっていると思う。ぼくはやっぱりいちばんの友人も親友もいない。そういう生き方からのがれられない。
 いちばんの友人はたくさんいる、ぼくが友人と表現できるひとたちはみんないちばんだ。いちばんの友人のうちのひとり、がたくさんいる。
 親友みたいな存在がいなくて悩んでるひとって多いなってたまに思う。ぼくも学生時代は悩んでいたかもしれない、いや親友みたいな存在は当時おそらくいて、でも距離が近すぎる友だちって居心地が悪いなと思って最終的には距離をおいているんだと思う。結果として親友がいなくて、そんなぼくってって悩んだこともあったけど、いま考えるとかわいいよね、ひとは結局ひとりで生きていくしかないし、ひとりで生きていくのを楽しんだり生きやすくするために登場人物との関係を大切に育んでいく、それが結果としてだれかひとりに依存するか複数に分散するか、それだけの違いであってどちらが性格や生き方に沿っているかはひとそれぞれだし、途中で方向修正だってできる。いまのぼくの中でのこたえがそれってだけで、悩んでるひとはきっとその悩むことがそのタイミングで必要なんだろうし、ぜったいにその時間は長い目で見てむだにならないから、苦しいかもしれないけど生き続けたらこたえが見つかるかもしれない。
 ぜんぜん話は変わって最近のことだけど、ぼくに向けられたわけでもない、悪意のない「デブ」っていう単語に心底傷付いた、それはもう勝手に傷付いた。そのときは強い言葉は使うもんじゃないよと思ったけれど、きっと知らないうちにぼくもやっている。仕事の愚痴は同僚以外にはあまり言わないようにしてるんだけど、たまにぽろっと「仕事ができんやつ」ってワードを出してしまうときがある。仕事ができないって悩んでるひともいる、もし相手がそうだったら確実に程度の差はあれそのひとは傷付いている。気を付けようと思った。そのひとは「デブ」を普段は「おでぶんちゃん」とか「おっきいひと」とか言うんだけど、そういうところがとても好きで尊敬している。仕事なんて生きていくツールでしかないんだから、できたってできなくったって衣食住をまかなえることができればなんでもいい。衣食住をまかなえられないかもしれないけれど、生きていればそれでいい。仕事が得意じゃないひととか、得意じゃない仕事をまかされたひととか、いろいろ表現の仕方はある。言い方には気を付けるようにしていたと思ってたけれど、やっぱり気付かないところで知らないだれかを、もしくは知っているだれかを傷つけてるかもしれないと思ったら、もう少し視野をひろくもちたいなと思った。じぶんの得意分野でだれかを傷つけるのはよした方がいいってじぶんで言ってたのに、それを直近でやっていたことにすごく恥ずかしくなった。

 そういえば最近SNSで、「高収入だけど仕事できないやつ」より「有能なのに職場選びのせいで低収入」の方がよっぽどいい、みたいな発言が目に入ったのだけど、仕事できなくて収入たくさんあるなら人生ラッキーじゃんって思った、稼ぎは良くないけど有能っていうのもひとによっては楽しい人生だと思う、結局そのひとが幸せであればそれでいいのに、他人がとやかく言うことじゃないね、とくにお金の問題はセンシティブだし、お前の人生になんの関係ないでしょう。
 お金の話で思い出したけど、上司が「絶対にいま投資をした方がいい、アーリーリタイアだって視野に入るし、そもそも上手に貯金してないひとが多いよね、ごにょごにょごにょごにょ」みたいなことを言っていて、おしつけがましくて職場のランチだったのに危うく喧嘩になりそうだった、横で聞いていた後輩にはもはや喧嘩してましたよと言われた。
 資産運用した方がいいことなんてこの仕事していればよくわかっている、言ってることが間違ってるとも思わない、だけど他人の人生に口出しするのは傲慢だし、それが受け入れられるほどあなたはだれの心もつかめていない、そんなことも見えていないのかと辟易する。仕事の範囲を超えた助言はだれも求めていない、求めているなら自ら聞きにくるからそれまで待った方がいい。
 みんながみんな家族をもつと思ったら大間違いだ、現に目の前で話を聞かされているぼくはゲイで、ぜったいに(血のつながった)子どもを授かることはない、その道を選んだときはぼくの中の欲しい幸せを手放したときだ、ゲイとして生きていくことだって相当な覚悟が必要だ。早期退職したとして、五十代でしたいことと二十代、三十代、四十代でしたいことって全然違う。いまやりたいことは必ずしも五十代やりたいことかはだれにもわからない。いまお金を使うことが正解か不正解かなんてそのひとによって違う。
 そもそもの話だけど、育った環境でお金に対する価値観なんて全然違う。ぼくはあまり裕福でない、というよりもどちらかというと貧しい家庭で育っていて、それでお母さんを恨んではいないしむしろ育ててくれて本当にありがとうと思っているけれど、やっぱりお金の使い方で「投資」なんて言葉は登場しなかった。いまの職に就いたのは、収入が低いという環境は苦労すると母の背中をみて否が応でも感じていたからだ、お金のことで悩まないために収入がそれなりに多い職に就けるようがんばった、その一心だった。
 だいたいそもそも、この先長く生きていけるかなんてだれにもわからない、病気だって怪我だってだれもが抱えているリスクだし、原因不明で死んじゃうことだってある。ぼくのパパは二十六歳で原因不明で朝起きたら死んじゃっていて、だから、なにが言いたいかって言うと、ぼくが不幸とかそういうことじゃなくて、二十六歳を超えてからのぼくは本当に今日まだ生きているということが重要なんだ。なにも毎日その死生観にがんじがらめになっているわけじゃないけれど、ふと立ち止まったとき、ぼくには三十代以降を楽しく生きているロールモデルなんてものは存在しない。それをだれかにわかってくれなんて思ったことはない、むしろ隠して生きている、ぼくの弱いところだからね、知られたくないところだからね、ロールモデルなんかなくたって、ぼくはぼくの力で周りに支えられながら幸せになるって、決めているからね。
 だけどずけずけと、ひとは長く生きるものだという前提でひとの人生に口出ししようとするひとを見ると、どうしても受け入れられない、受け入れなくていいんだけど、ぼくはまだおとなになりきれていないので、受け流す方法を知らない。
 ここのところ強くなったな、少しおとなになったなと思っていたけれど、まだまだ子どもだ。もっと強くなりたいし、おとなになりたい。強くなることやおとなになることがどういうことかはわからないけれど、もっと生きやすくなればいいね。

 以上です。よろしくお願い致します。
 

 


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