わたしから始まりますように
アダルトチルドレンとは
「アダルトチルドレン」という背景には、社会の急激な変化、家族構造の変容、過度のストレス社会など、複雑な要因が関係していることが指摘されています。
アダルトチルドレンという言葉はアメリカで使われ始めました。身体的・精神的虐待やネグレクト、親のアルコール依存など、問題のある家庭環境で育ったことに起因する様々な心理的問題を指すのですが、必ずしも明確な診断基準があるわけではなく、特徴は人によって異なります。
自分の生い立ちの影響から構築される人間関係や思考パターンを見直す機会としてアダルトチルドレン関連の自助グループに参加していました。
私が機能不全家族で育ったかどうかは別として、恨みや怒りにつながりかねない認知の歪みや既存の思考パターンを見直すことで、過去の出来事や経験を受け入れられるのではないか?という結論に達しました。
そして、日記をつけているうちに、幼少期から続く自己喪失感や成功体験の乏しさが、健全な自己イメージの構築を妨げていることに気づきました。
日記を付けることは、アウトプットのスキル向上に役立つだけでなく、感情や思考の整理にもなるのでオススメです。
自己喪失感を埋めるためには、痛みを取り除いたり麻痺させたりすることではなく、私の場合は自分の痛みと向き合い、何が自分を傷つけているのかを知ることが、新たな可能性を生み出すのに効果がありました。
つまり「痛み」とは、自分が何で傷ついているのかを知らせるサインやシグナルだったのです。
要約すると、自分の思い込みの癖や思考パターンに気づき、新たな認知を形成するために必要な成功体験を増やすことが、新たなニューロン結合の創出や思考プロセスの再構築につながると思っています。
また、本人の症状(障害)や問題を通して、家族全体の問題が投影されているケースもよく見受けられます。
従って、どちらか一方が悪いのではなく、両者の関係性が解決のきっかけであることをお互いが認識しない限り、状況は改善しないと思います。
つまり、加害者でも被害者でもなく、当事者としてお互い向き合う必要があります。
このように家族全員を問題の当事者として考えることが重要であり、肉体的にも精神的にも安心できて初めて、個人の問題に対処できるようになると思います。
↓は施設での集団生活や幼少期の思考のクセを要約した記事です。嗜癖(しへき)という問題に焦点を当てた記事です。
ここからは、私が陥っていた+陥りやすい思考パターンを過去の経験に基づいて要約します。
白黒思考・スプリッティング
人の目を気にしすぎたり、はっきりとした態度を示す必要性を感じたりすると、極端な思考に陥りがちだった。白黒思考は、一刻も早く問題を解決したいときや、その状況から逃げ出したいときに加速した。そして、思考が極端になると情緒不安定になり、感情の起伏が激しくなった。
自分の内面よりも外界に目を向けていたため、自分の問題よりも外界の問題に対処することに関心が向いていた。そういうときはたいてい、自分の問題を受け入れたくなかったし、自分が傷ついていることも知りたくなかった。
完璧主義
物事が自分の思い通りに進むことを望み、結果が受け入れられないと「努力しても報われない」と思い込んでさらに自分を苦しめた。
自分にも他人にも厳しすぎると指摘され、ミスは許されないという考えが一般的になる。また、必要以上に自分にプレッシャーをかけることに耐えられず、一気に無責任になり自暴自棄になることもある。
強迫的・衝動的
思考が強迫的になればなるほど、行動も衝動的になる。さらに、自分が陥っている状況を判断する能力を著しく奪われていることが多いため、選択肢がなくなり、余計「何とかしなければいけない」と自らを追い込んでいた。また、そういう時に自分が孤立に向かっていることに気づかなかった。
自己肯定が低い
褒められた経験が少なかったため、他人からの評価を気にするあまり、相手の発言や態度に敏感になり、否定的な発言や結果だと判断すると、自分の思い込みで過剰に自分を責めるようになっていた。完璧主義や強迫・衝動的行動なる元凶な気がする。
自分のせいではないことを自分のせいにしようとし、誰もそこまで指摘していないにもかかわらず、「もしかしたら全部私のせいではないのかもしれない」と急に被害者意識を持ってしまう。そして、同じような出来事が立て続けに起こると、さらに被害者意識を強め、何に対しても無責任に振る舞い、自己破壊的になる。
環境の変化に過剰反応
自分にウソをつくことで他者や社会に過剰に適応し、合わせようとするあまり自己負担が大きくなっていた。この重荷に伴う感情の積み重ねをケアする能力がないため、「我慢するしかない」という選択肢のみで物事を受け入れようとして心のケアを後回しにしていた。
子供時代に物理的な安全を確保する時間があまりなかったため、誰にも邪魔されないように自分の脳内に居場所を作らなければならなかった。私は何か一つのことに没頭するのが好きで、好奇心や没頭の対象が複雑であればあるほど、のめり込んだ。
安心感を築くことに慣れていなかったため、大勢で楽しそうにしている人たちを見ると「みんな溶け込もうとしているのだ」と思い込み、自分はみんなと違うという根拠のない意地を張り続けた。そして、不安定な環境に居心地の良さを感じるようになっていった。
存在意義にこだわる
自分の限界を知ったとき、私はたちまち自信を失い、自己価値感を失い、自分の存在意義さえも消えてしまったように思えた。
繊細な性格にもかかわらず、自分を傷つけることが多く、自分が自分であることに執着するあまり、他者と共感することよりも他人と違う方法を見つけることで頭がいっぱいだった。他人と相容れないものを作るたびに、自分はなんて孤独な生き物なのだろうと嘆き、虚しさを感じていた。
2018年9月30日の回顧録
私は人生の半分を自分にウソをつく事や誤魔化すことに費やしてきました。世界の見方は自分で構築して更新していく。絶望のあとに、ちゃんと希望がありました。
名もなき詩
結氷する湾の上で佇み
歩き
疾走し
孤独に苛まれ
戦って
試行錯誤しながら
みんな生きてる
私の人生、みなさまの良心で成り立っております。私に「工作費」ではなく、「生活費」をご支援ください🥷