命と時間とフォルティシモ
noteの記事を書いていない間ずっと、なぜ大友康平のことをフォルティシモと呼んでしまうのか考えていました。
妻に聞いたら「そんなの当たり前だろ」と言われる始末。
分かっちゃいるけど、あまり当たり前という答えで片づけたくはありません。
この間、数日でしたけど、ほんの500年もしない過去にさかのぼった時代、他人が住む家に火をつけたり、隣の市長や県知事の首をとって、上司に「よくやった!褒美をあげよう」と褒められるのが当たり前の時代。
無茶苦茶ですやん。
今じゃ、ハラスメントだのコンプライアンスだの当然の権利だのずいぶん変わりました。
生まれてくる時代を間違えたという人がいる。
あながち間違いじゃないかもしれませんね。
なんか命あって当たり前の時代。
そんなこと当たり前じゃなくてはいけないのですが、また500年先の人類に、インターネットが使えるようになって、匿名の誹謗中傷が横行して自殺する人もいたなんて、無茶苦茶な時代があったんやてって思われたりして。
そんなことを思った原因になったかどうかは分かりませんが、三島由紀夫の『命売ります』を読んでいました。
人からいただいた物で、三島由紀夫が作品名に命という言葉を使っているだけで、興味が湧きました。
読んでみると予想以上にエンターテイメント性があるというか、夏目漱石の『坊っちゃん』を読んだ時のような感じでした。
感想を述べながらもまだ読んでいる途中でして、あと20ページくらい残っています。
オチが気になるので読み切ってから寝ましょうかね。
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