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廃れたものに惹かれる

 道を歩いているときに物が落ちているのを見つけると、いつも写真を撮ってインスタのストーリーに載せてしまう。

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 もう、どう頑張ってもごみとして処理されるしかないような物たちに、なぜこんなにも心を動かされるのだろう。無機質でありながら、生々しさがある。雰囲気が似ているのだ。人の気配を感じる、がらんどうの廃墟の矛盾と。物に命が宿っている最期の瞬間を痛烈に感じる。   
 人間でいうなら、瞳から光がだんだん消えてしまう様子のような。

 きっと翌日には人知れず処分されるであろうものを見つけたとき、わたしの知らないところでこんなふうに忘れ去られてゆくものがたくさんあるんだろうなと思う。
 それは一瞬でも誰かに必要とされて生まれてきたものなのに、主人の手から離れてしまったというだけでごみのように扱われて、誰かに拾われることもなければ、元の持ち主が探しにくることもない。

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 ふと、小学校四年生のときの社会科見学で見た、ゴミ処理場の真っ赤な焼却炉の景色が重なって現れる。分厚いガラスの向こう、あのなかで粉々にされて燃やされる結末がありありと見えてしまう。それが不憫で、でもなんだか、拾ってあげられないけど、愛おしさがある なんでだろう?
 むかし一度だけ行った遊園地が潰れてしまったと知ったときや、遊び相手がいなくなった人形にごめんねと言いながら処分用の段ボールに閉じ込めてしまうときの感覚とすこし似ている。実際にそこに存在していたことを知りながら、喪われるのを止めることができない虚しさ。

 わたしの友人が以前、「小さい頃、絵を描くのは好きだったけど、それは創作意欲からきているというよりも、綺麗なものを、幼い私は手に入れられなかったから、せめて絵の中では自分のものにしたいという所有欲だった」と話していた。わたしの写真もきっと所有欲だと思う。   

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 十年後には誰も覚えてないことを覚えていたい。だから、遺失届さえ出されない、溢れ返った"落し物未満"の片鱗たちを、自分の記憶に残している。
 破壊と創造という言葉があるが、あれは本当は、喪失と創造なような気がする。


 或いは、償いかもしれない。
 忘れっぽいわたしが、いつかどこかに置いていってしまったものたちへ
 見失ったまま、見つけてあげられなくてごめんね

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