パパ、なんで めっ ていうの? A
「ねえ パパ なんで」は
Q&Aで構成されています。
"パパ、め っていうの? Q"は→コチラ!
いっそのこと躾なんてしなければ、どれだけ楽だろう、と何度思ったことか。
そう、子育ての話でございます。
生まれる前は、もう破竹の勢いで甘やかし倒したろかくらいに思った日もありましたが、なかなかそうもいきません。
例えば僕が甘やかすことによって、奥さんが一人の時に大変な想いをする、なんてこともあるわけですから。
お着替えさせて、食べさせて、全部親がしないといけないって、なかなかの負担ですしね。
甘やかしてくれるから「ぱぱすき~」ってなるのも本望じゃないです。我々が躾と認識する部分を"大事"と捉えてくれることが一番なのです。
特に女の子は、自分でやること・できること自体に、意欲を持ったりもするらしいです。
こういうのって積み重ね。ちょっとずつやらせておかないと、気がつけばもう高い山に登れません、みたいになりかねない。それは大人も同じです。当たり前のレベルを引き上げておくって、とても大切(実体験)。
で、この件、絶妙なラインで、大体相談しても「世話焼けるのはいまのうちだけなので、やっちゃった方がお互いに気持ちがいいし、楽」って意見が殆どなんですよ。
いやじゃあそれで、もうちょい大きくなったときに、あれもやらないコレもイヤ、みたいになったらどうすんねんって思うんです。
どの部分でそれが発露しているかわからないだけで、着替えはするけど、どっか変なところが堕落してるとか、在り得るわけでしょう?
もちろん甘えることが悪いわけではないです。甘えるの下手になって、生きるのしんどいみたいな人もいてますからね。ウチの姉とかもそういうタイプ。結局は"どの部分か"に集約するから、ややこしいなあっていう。
ほいで、大概、甘えてくるのって朝とか忙しいときなんですよ。それこそさっさとやってしまった方が早い。んですけど、一度「自分でやって」と言った手前、ゴネたらなんとかなると思われても困るので、戦争がはじまるんですね。
途中で何のために意地をはっているのかわからなくなってくるんですが、相手もその時の気分で強要を迫ってるだけなので、向こうにも優しさと躾の境界線を感じてもらえたらなとか…、まあ、いまはまだ考えるだけ無駄か…いやいや…と自問自答の禅問答。
結局、こちらの我を通す形になったという罪悪感に苛まれる日々なのです。ただ日常は待ってくれません。撃沈している心に大きなため息を吹き込んで浮上させ、次の行動を、明るく笑顔で促してたりする。
屹立した情緒というほそいほそい氷の棒を、理性と父性で叩き奏でる。それが子育てというメロディ。
カッとしてかけてしまった圧とか、ムッとしてしまった自分とか、きっとその後に訪れる鬱に、みっともないなとつっぷしてみたり。
本当に"めっ!"って、「滅!」って言って、その一連のやりとりを消失させられたらいいのにとセツに願わざるを得ないです。
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