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第二章 ウクライナのマフノ叛乱運動10周年に際して

原文:http://www.spunk.org/texts/writers/makhno/sp001781/chap2.html
初出:Dyelo Truda(労働者の大義)、第44・45号、1928年1月・2月、3~7ページ

知っての通り、ボルシェヴィキ指導者達は十月革命の理念に対して恥ずべき裏切りを行った。ボルシェヴィキ党とその「プロレタリア革命」当局とは、全国配置が終わると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世とオーストリア皇帝カールとの不名誉な講和を締結し、その後国内で、最初はアナキズムに対する、次は社会革命党左派と社会主義全般に対するさらに嘆かわしい闘争を行った。1918年6月、私は、当時の全露ソヴィエト執行委員会の議長だったスヴェルドロフの強い勧めで、クレムリンでレーニンと会談した。私はレーニンに、グリャイポーレ地方革命防衛委員会委員長としての自分の任務を示しながら、ウクライナ中央ラーダで独墺侵略者とその同盟軍に対してウクライナ革命勢力が行っている不公平な戦いの概要を伝えた:彼はこれについて私と論じ、私が、革命と革命が内包するアナキズム思想に狂信的な農民的愛着を持っていると指摘した上で、ソヴィエト当局は都会の革命中心地で闘争を開始しているが、それはアナキズムそのもの対してではなく、アナキズムの信奉者だと公言する盗賊に対してだ、と断言した:

あなたが今話してくれたような組織的革命活動を行うアナキストと、私達ボルシェヴィキ党と私自身は、共同革命戦線を構築に向けて、いつでもお互いに理解し合えるでしょう…社会の裏切り者については全く別です。彼等はプロレタリア階級と貧農に真の解放をもたらす上で紛れもない敵なのです。彼等に対する私の態度はいつまでも変わりません。私は彼等の敵対者です。

一人の優れた政治家の内で、この時レーニンが見せたほどの狡猾さと欺瞞には滅多に出会えない。この時点で既に、ボルシェヴィキ当局は、この国におけるアナキズムの信用失墜を非常に抜け目なく計画し、アナキズムに対する弾圧を画策していた。レーニンのボルシェヴィズムは、あらゆる自由な革命組織に対して既に×印を付けていた。アナキズムだけが尚もボルシェヴィズムにとって危険なままだった。というのも、アナキズムが政治的・戦術的に幅広い労働者・農民大衆を勝利に導くべく、彼等の間に組織的で厳密に一貫したやり方で活動できるようなっていたなら、アナキズムは単独で、健全なもの全てを呼び起こし、この国の革命対して完全にコミットし、闘争を通じて自由・平等・自由労働の理念を実生活の現実にできると思われていたからである。

記しておかねばならないが、社会主義者に対しても、レーニンは同じぐらい侮辱的な口調で語っていた・・・。この時期にボルシェヴィキ当局がアナキズムと社会主義を攻撃したために、海外の反革命勢力は大きな戦果をあげた。海外の反革命軍隊はウクライナの革命的領土に容易く侵入できるようになった。アナキストや社会革命党が--実際には、残余のボルシェヴィキもいた--率いていた革命闘争分遣隊は全て速攻で追い払われた。

ボルシェヴィキ指導者による恥ずべき裏切りのおかげで、反革命は、ウクライナの町と村の革命的結びつき全てを短期間で麻痺させ、大規模弾圧を実行できるようになった。このようにしてウクライナの革命は、全く予期せずに死刑執行人の絞首台の前に立たされ、発展の第一段階でかなりの制裁を受けてしまった…。

血塗られた恐怖に満ちた暗黒の日々だった。中欧の皇帝どもと結んだ合意の下、ボルシェヴィキ指導者達は、ロシア人労働者からなる充分な装備を持ち規律正しい革命分遣隊をウクライナから退避させた。当時、ウクライナ人労働者の武器は少なく、装備は悲惨で、革命の敵と対決するには力がなく、ロシア人同志の後に続いて退却せざるを得なかった。血なまぐさい小競り合いが時としてあったが、それは、武器を所持したままのロシア入国を拒否したボルシェヴィキ当局との衝突だった。グリャイポーレ地方のリバータリアン共産主義グループを中心に団結し、様々なグループと分遣隊に分散していた革命的農民もロシアに退却した。ロシアではまだ革命が進行中で、反革命侵略者と再び戦うために必要な兵力を回復する手助けをしてくれると考えたからだった…。残念ながら、革命のこの段階でさえ、ボルシェヴィキ指導部は、勤労大衆にある健全で革命的なもの全てにはっきりと敵対していると見て取れた。勤労大衆は、党の特権のため、そして背後に潜み暴走する反革命のために、組織的に中傷された。タガンログの町に近づくと、ボルシェヴィキ当局は独立革命グループと分遣隊を待ち伏せ、武器を奪おうとした。この情況のため、誇り高きグリャイポーレ革命地域の勢力は、極少人数の集団へと散り散りになり、一部は秘密裏に帰郷し、他の集団はその後に何をなすべきか決めるために同じように秘密裏にタガンログで結集した…。

タガンログで、私はヴェルテルニコフと共に(現地の同志グループから)会議の開催を依頼された。そして、会議が開催された。決議は簡潔ながら要点をついていた。参加者の誰一人として退却を続けようという者はいなかったのである。私・ヴェルテルニコフ・その他3人の同志を除き、他の全員が前線に再び加わり、農民の間で最大限注意深く目立たないようにして働き続けることになった。4人の同志と私はこの会議で以下のように委任された。モスクワ・ペトログラード・クロンシュタットで2~3カ月ほど過ごし、これら革命の中心地で革命の進展に精通し、7月1日までにウクライナに戻り、単に戦うだけでなく勝利するという明確な意図を持って、会議で決められた地域で自由革命防衛大隊を編成する。

同志の中で予定通りウクライナに戻れたのは私だけだった。ウクライナでは、独墺軍とその手先であるヘーチマン、スコロパードシクィイが政治と経済を勝手気ままに動かしていた。私は昔の同志をほとんど見つけられなかった。同志達の大部分が殺されたり、獄中で処刑を待ったりしていたのだ。私は、タガンログ会議で私に委ねられた仕事を実行しなければならないと深く確信し、この地域の農民と接触し、その中から闘争に専心する気がある人を選び出そうとした。私は、以前に私の考え方を理解してもらう機会を持った多くの農民男女と会合を開いた。彼等の助けを借り、独墺軍の逮捕や銃撃を逃れ、尚も反撃を決意していた同志達を何とか探し出した。私達はロシアから同志が戻ってくるのを待たなかった。また、村落での滞在は、占領軍とその同盟軍による絶え間ない襲撃・捜索作戦を受けやすく、最も能動的な同志達が逮捕・処刑される危険もたびたびあったが、それにも怯まなかった。そして、ヘーチマン・その封建的農地体制・その援護者の独墺軍に対する革命的農民大衆蜂起の途を整えるべく組織を素早く立ち上げ、稼働できたのである。当時、私達が使っていた言葉は次のようなものだった:

農民・労働者・労働するインテリゲンチャ諸君!資本と国家に対する闘争で最も信頼できる武器は革命の復活と拡大である。これを支援しよう!諸君の生涯で労働者の自由社会を創造し強化する、これが我々の共通目標である。これを支援しよう!諸君の組織を作り、諸君の隊列からパルチザン型の革命戦闘分遣隊・大隊を編成し、反乱を起こして、ヘーチマンと独墺帝国を--我々に対して獰猛な反革命軍を送り込んだ奴等を--襲撃せよ。そして、どんな犠牲を払っても、革命と自由を死刑にする奴等を打倒しよう…!

勤労大衆は私達に耳を傾け、理解してくれた。グリャイポーレから遙か遠くの村落や小村から代表団がやって来て、私達と会い、アナキスト゠グループに加入しようとした。そして、メンバーの一人が代表団と共に村に戻って議論し、蜂起の下地を作った。当時、私は一人で旅をするか、3~4人の同志と共に旅をしたものだった。私はこうした村落や地区の農民達と秘密会議を開催した。この地方の農民は、骨の折れる根気強いプロパガンダと組織作り活動を2カ月にわたり行った。そして、私達グリャイポーレ゠リバータリアン共産主義グループは、労働者の大群が私達の指揮に従う用意が整っていると気付いた。その中にいる多くの武装叛逆者達は、ヘーチマンと独墺ユンカーによる経済的・政治的好き勝手に終止符を打つと決意していたのだった。

私は覚えている。ある時、私達が既に編成したユニットの代表団が、私に連絡しようとしてこの地域を一週間旅していた。私はブルジョア階級と独墺司令部に憎まれている男だった。私としてもまた、2~3人の同志と共に村から村へと旅して組織化活動を行っていたのである。彼等は何とか私と連絡を取り、彼等を派遣した人々の代理として、革命の敵に対する全面的武装蜂起の開始を、もっと好都合だと判断される時期まで先延ばしにしないよう頼んできた。彼等は私に告げた:

(前略)ネストル゠イワノヴィッチ、グリャイポーレに戻って、住民を蜂起させてくれ!住民が蜂起したら、全ての村落・地区・地方が後に続くだろう。アジテーター同志の一団と共に行った君の熱烈な活動によって、既にグリャイポーレの郷ではヘーチマンと独墺軍に対する革命的叛乱の気運が稀にみるほど高まっている。君達はここ数週間、自分の生命を最大の危険にさらしながら、言葉によるアジテーションで蜂起の準備をしようと村落を旅しているが、それよりも、グリャイポーレ叛乱軍が君の召喚状を発する方が、我々が準備万端整えている蜂起の仕事にとってもっと有益だろう。

私は、自分達のグループと私個人に対するこのような信頼と賛辞に揺り動かされはしなかった。革命的虚栄心など全くなしに、私は、同じ行動規範を友人達に、そして私達が影響を及ぼしている大衆に教え込もうとした。これは、反革命執行人によって一時的に頓挫していた革命を成し遂げるべく私達が現実へ呼び覚ました明晰さと知力を保持するという問題だった。

私はロシアの革命中心地を旅した。手に入れた経験と情報によって、私は多くのことに気付いた。こうした理由から、グリャイポーレのリバータリアン共産主義グループの友人達と共に、革命の敵に対する農民蜂起組織作りに専念した。自分達の役割を低く見積もり、自分達の運命に課せられている本当の仕事を忘れてしまわないよう細心の注意を払った。だから、農民から蜂起を開始すべきだと再三しつこく要求されても、私は、蜂起の主導者・長という立場から繰り返し次のように述べた:

諸君の地域で、全勢力が組織的に諸君のグループと充分結び付いているのか?地域が離れていても、蜂起は同時期にあらゆる場所で勃発しなければならないと理解しているのか?
理解しているのなら、我々の武装闘争を開始する上で最も有益な方法を再考するのは時間の無駄ではない。特に、敵と同じ技術的手段を持てるようになるには相当の時間が掛かるため、実際に我々が最初の一撃を加える際には、多くの小銃と大砲、そして小銃と大砲それぞれに20個のカートリッジと砲弾を確保していなければならない。
これが上手くいけば、我々の満足は2倍になる。そこから、政治的に・組織的に・戦闘条件的にもっと大きな決定を迅速に下せるようになるからだ。最初に成功すれば、その後、我々のパルチザン分遣隊全てがあらゆる方面から敵に襲い掛かり、少なくともウクライナのドニエプル川下流域とドネツ盆地地方で独墺司令官とヘーチマン政府を完全に混乱させるだろう。そうすれば、夏の間に、事態が我々にとってもっと有利に展開し、我々の闘争をさらに強化できるようになるはずだ。

これらは、革命と私達の運動理念にとって極度に困難な時代に、私達アナキスト農民が勤労大衆に話した言葉である。ここで次の疑問が投げかけられるかもしれない。大衆が弾圧者に対する蜂起を最初に呼び掛けた時に、私達は何故、大衆に対する自分達の影響力についてそれほどまで、おそらくは必要以上に、慎重だったのか?次のようにも問われよう。革命的アナキズムの嵐には裏の政治的動機などなく、この嵐が解き放った諸要素が大衆に注入されていたというのに、何故、叛逆の精神が自然に私達を押し流している中で、大衆の先頭に立たなかったのか?今では奇妙に思えるかもしれないが、私達の態度を決めたのは、もっぱら時代情況、特にリバータリアン運動では滅多に重要視されない情況だった。実際、活動的な革命的前衛にとって大きな試練の時代だった。蜂起の準備を綿密に行わねばならなかったからだ。グリャイポーレ゠リバータリアン共産主義グループはこうした前衛の一つだった。様々な出来事が私達に次の問題を提起した。怒れる勤労大衆の運動を主導する全責任を引き受けるべきか、それとも、政党の--既成の綱領を持ち、同時にモスクワの「革命的」ボルシェヴィキ政府と直接接触できる--誰かにその役割を譲り渡すべきなのか?

この問題は、私達のグループの存在を難しくした。特に、こうした慌しい時代に、規律正しい革命軍組織を否定するアナキズムの抽象概念を発動するなどあり得ないからだ。そんなことをすれば、アナキストは革命活動で孤立し、アナキストが原則的に果たすべき創造的・生産的な役割の存在そのもののために立ち往生してしまうだろう。革命的情熱・直接的経験が私達に反革命の挫折に尽力するようにさせていた。それでも私達は、アナキズム教義の根本原理の正しさに不変の信念を持つアナキストとして活動したいと熱望した。しかし、私達はアナキズム運動内部に蔓延する組織解体をよく分かっていた。これが重大な損害をもたらし、ボルシェヴィキと社会革命党左派の術中にはまってしまった。また、私達は実感していた。この常習的解体はアナキズム教義の建設的側面以上にもっと確固として大部分のアナキストに根付いており、その結果、組織解体はアナキズム運動の主要な特徴となっている。だから、大衆の理解も大衆からの支持も得られない。大衆は無意味な闘争で闇雲に死ぬ気など毛頭ないのだ。

私達はこの問題に対して考え得る最良の解決策を取った。仲間のアナキズム信奉者達がアナキズム教義にそぐわないと見なしてこの前衛主義的姿勢に文句を言うかもしれないが、それに耳を貸さず、蜂起を直接組織したのである。このようにして、実際に、私達の大義に大きな損害を与えていた些末な戯言を始末し、その代わり、完全勝利に向けた闘争貫徹に集中したのだった。ただ、そのために、革命的アナキズムは、同時代の諸革命において適切にその役割を演じ、積極的任務を果たそうとするのなら、人員の訓練をどのようにするのか・勤労大衆が方向性を模索している革命初期にどのようなダイナミックな役割を果たすのかといった組織の性質に関わる莫大な要請事項に取り組まねばならなかった。

私達農民アナキストは、町や都市のアナキスト集団は原子化し、半合法的に存在していると認識していた。町や都市で、ボルシェヴィキはアナキスト集団を崩壊させようと襲撃したり、ボルシェヴィキ当局の補助者へと転じさせたりしていた。私達は田舎で活動し、民衆が確実にアナキズム運動に耳を傾け、町から最良で最も健全なものを全て取り込めるようにした。そのことで、ヘーチマンとその独墺スポンサーに対する叛逆の旗を掲げられるようにしたのである。

このことを心に留めて、私達のグループは、アナキズムの基本原則を少しも譲歩せず、この地方の勤労農民を教育した。これによって武装闘争が急増し、叛乱運動の政治綱領が起草され、すぐにあらゆる場所で「バチコ゠マフノ革命部隊」として知られるようになった。

このグループと私自身の影響力は非常に強力で生産的だったため、アナキズムに敵対する政治勢力、特に社会主義系政治政党は、叛乱大衆の精神にアナキズムへの敵対的態度を蔓延させられなかった。叛乱大衆は、彼等のスローガンを気に留めず、実際、その弁士の演説すらも耳を貸さなかったのである。大衆は、資本とその下僕の国家に対して労働者の自由と独立を説くマフノの言葉・グリャイポーレ゠リバータリアン共産主義農民グループメンバーの言葉を受け入れ、その採納こそブルジョア資本主義社会という有害組織を自由な勤労者組織で置き換える闘争の基盤だと見なした。

この目的の名の下で農民大衆は強力な武装勢力を創設し、グリャイポーレ゠リバータリアン゠グループが編成した参謀の命令下に置き、その後に恒久的に維持した。こうした経済的・心理的繋がりはその後も決して壊れず、勤労者は暗黒時代にあっても惜しみなく運動に集結し、労働力と食料を提供し続けた。

このようにしてグリャイポーレ地方は、その自主組織からあらゆる国家主義傾向が追放され、瞬く間に別天地になった。それまで何の制約もなく放縦を尽くしていた独墺の野蛮な大群は、粉砕され、武装解除され、その武器はこの運動が接収した。

その結果、こうした軍隊はこの地方から大慌てで逃げ出し始めた。ヘーチマンのスコロパードシクィイの部下について言えば、絞首刑にされた者もいれば、追放された者もいた。ボルシェヴィキ政府はすぐにこの誇るべき地域の存在を知り、この叛乱運動の背後で鼓舞していたアナキストの存在を理解した。この時点で、ボルシェヴィキの新聞は、トップページにマフノの名前を堂々と載せ、マフノの指導下で行われた運動の成功を連日報道していた。

叛乱運動は着実に前進した。ウクライナ各地で独墺軍を撃退し、ヘーチマンの部下を次々に追い出すと、次には、デニーキン主義の反動とウクライナ゠ディレクトーリヤ--「ペトリューロフシチナ」として知られている--が現れた。これに対抗して、叛乱運動は、アナキスト農民の支持の下、これまで通り速やかに全勢力を配備した。アナキスト農民は、革命の最も献身的な息子達だったのだ。こうした新たな敵に対して広大な前線を構築し、英雄的な軍事作戦が実行された。革命のために、勤労者の新たな自由社会のために。

こうした背景の中で、アナキスト農民はウクライナ勤労者の叛乱運動を組織し、後にマフノ叛乱運動(マフノフシチナ)へと発展したのだ。マフノフシチナの敵や、時にはその「友人達」とされる人々もが、図々しく、この草の根運動にイデオロギーはなく、その原理的・政治的創造性は外部からもたらされたとする御伽噺を広めている。こんな御伽噺に出会った人も、この概略--不完全であるにせよ--に照らしてみれば、こうした主張には何の根拠もないと結論する立場になるだろう。

この運動の指導者達も、最初から最後までこの運動を支えていた勤労農民大衆も、ちゃんと分かっていた。叛乱運動を組織していたのはグリャイポーレ゠リバータリアン共産主義グループだった。叛乱運動は、革命的言葉遣いにも、町でよく見かける無秩序な傾向・無責任なメンタリティにも惑わされなかった人々が持つアナキズムの希求を常に大事にしていた。カレトニク兄弟・アレクシス゠マルチェンコ・セメニュタ兄弟・ドマシェンコ兄弟・マフノ兄弟・リュティ・ズイチェンコ・コロステレフ・トライヤン・ダニーロフ・タイケンコ・モスチェンコ・A゠チュベンコ、その他多くの人々のような叛乱運動を触発・組織した人々は皆アナキストだった。彼等の多くが、1906年~1907年に農民の中で活動し、実際、この運動の先駆者だった。彼等こそが、運動内部の人々と共に、政治思想だけでなく、軍事的・戦略的組織という点でも、この運動を支えていた。彼等の考えに最も近いアナキスト組織からの援助が切望されていたものの、大変遺憾ながら、一度も組織的な形で提供されはしなかった。革命の敵に対する軍事作戦を初めてから9カ月間、本来友人達であるはずの都会のアナキストからこのアナキズム運動に何の連絡もなかった。その後、敵の手から解放してくれたという個人的恩義をこの運動に感じた人々を中心に、やっと数名が主として個人の立場で参加した。

マフノ叛乱運動に組織的に参加してくれたのは、マケイエフ同志とA゠チェルニャコフ同志が指揮していたイヴァノヴォヴォズネセンスクのリバータリアン共産主義グループだけだった。このグループは必要かつ重要な支援を提供してくれたものの、残念ながら一時的なものに過ぎず、そのメンバーの大部分はしばらくすると疎遠になっていった。

こうした不公平で苛酷で(政治的にも歴史的にも)有意義な闘争を行っていた辛い時期全体で、マフノ叛乱運動は全ての食糧を叛乱地域内の資源だけで賄っていた。私は確信している。これこそ、この運動が革命的立場を断固として固守でき、始終周囲を取り巻かれていたために戦いに終わりはなかったものの、アナキズムと社会革命以外の道を歩まなかった本質的理由だったのだ。

マフノ叛乱運動はアナキズム思想を遵守し、都会と田舎の勤労者が自由社会を構築しようと活動する自主独往性を国家とその支持者に妨害させなかったため、もちろん、国家主義政治政党からの支援など期待できなかった。一方、町のアナキスト組織にはこうした支援を期待する権利を持っていたが、残念ながら支援は一度も来なかった。当時、大部分のアナキストには組織解体の慣習があまりにも深く根付いていたため、彼等は、田舎で何が起こっているのか理解できなくなっていた。概して、都会のアナキストは、農民の間に広くアナキズム精神が行き渡っていると気付きも理解もできなかった。その結果、農民アナキストの影響力を都会の労働者組織に及ぼせなかった。この怠慢に気付いていたため、マフノ叛乱運動に都会のアナキスト組織の欠点をありがたがる謂れはなかった。この評価から、革命活動に関してマフノ叛乱運動が採用した立場の正しさを信頼するようになった。この立場を断固として守れたからこそ、独自の資源にしか頼れなくとも、長年にわたり戦うことが可能になったのである。それによって、面倒でも困難でもあったが、革命的義務を果たしていたものの、マフノ叛乱運動は一つだけ重大な過ちを犯した。ボルシェヴィズムと手を組み、ヴラーンゲリと協商に対する共同作戦を展開してしまったのだ。この盟約が続いている間、革命の成功にとって実践的にも心理的にも確かに貴重だったが、マフノ叛乱運動はボルシェヴィキの革命主義について誤解しており、彼等の裏切りを防ぐ処置を講じるのが遅れてしまった。ボルシェヴィキは裏切り、彼等の全「兵士」を使ってマフノ叛乱運動を攻撃した。そして、かなり大変だったものの、一時的にマフノ叛乱運動を打ち負かしたのである。

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