瓦礫の中から、再び
新型ウイルスが蔓延してから2年が過ぎ、パンデミックは日常となった。
そうかと思えばトンガの海底火山が噴火して、その復興もままならないうちにロシアがウクライナに侵攻を始め、1か月が経とうとしている今も終わりは見えず、犠牲者の数は増え続けている。そんな中、数日前には3.11を思い出させるかのような地震が起こった。
もうずっと、絶え間なく災害が起こり続けている。それでも私たちは、マスクをして外に出かけ、昼は何を食べようかと考えたり、恐ろしいニュースに震えた次の瞬間には、アイドルが更新したSNSにいいねをしたりする。
多くの犠牲に憤ったり、悲しんだりしながら、ソシャゲのログインボーナスを忘れずに取得したりできるのだ。
今日、ケイティ・キタムラという日系アメリカ人の作家のインタビューを読んだ。Twitterで流れてきたこの言葉が気になったからだ。
最悪の事態が起こっていても、明日の朝食べるパンを買い忘れない。そんな不協和を両立させて生きている私たちの日常に、彼女は未来が開けていくような希望を見るのだろうか。
災害の中で浮き彫りになる人間性に希望を持つ作家には、もう一人、レベッカ・ソルニットがいる。最近、彼女の『災害ユートピア』を読んでいる。
2010年に出版されたこの本の中で、ソルニットは、地震や戦争、テロ、ハリケーンなどといった大規模災害のあとに一時的に立ち現れる相互扶助的な共同体を「災害ユートピア」と呼んでいる。
災害は恐ろしく、悲惨で、痛ましく、決して望ましいものではない。そう明言したうえで、しかし、危機的状況は人々の利他的な行動を呼び起こし、社会的な連帯感を生み、一種のユートピア的状況を作り上げると彼女は言う。むしろ、通常時の経済や社会の仕組み――富裕層と権力層に都合よく作られながら、全ての人々の人生を左右するシステム、それこそが人々が本心で望んでいる社会的つながりや、意義深い仕事をしたいという欲求の達成を妨げているとさえ書いている。それらが機能停止し、通常の秩序から人々が解放された時こそ、私たちは自由に生き、今までと違うやり方で行動できるようになるのだと。
そのことは、サンフランシスコの大地震で自発的に食糧を分け合った人々の行動や、ハリファックスの大爆発における避難民への支援など、あらゆる事例に見ることができる。私が今、個人的に思い出すのは、2014年の4月に韓国で起こったセウォル号の沈没事故の際、沈みゆく客船の中で、自分の分のライフジャケットを他の子どもに譲った修学旅行生の少年のことだ。
イ・チャンドンの弟子であるイ・ジョンオンがメガホンを取った映画『君の誕生日』の題材になった話でもある。未熟な船員に操船を任せ、過積載の船を運航させた船会社の営利優先主義が事故を起こし、責任者である船長は真っ先に逃げ出した一方で、名もない子どもが誰よりも道徳的で利他的な行動をしたのだ。
またソルニットは、二次大戦に従軍したチャールズ・E・フリッツの2つの論文を紹介している。
災害によって苦しみを共有することで、人は一時的に疎外感と孤独から救われる。それが災害の「効能」とまでは言いたくないが、副次的な効果であることは疑いないだろう。
フリッツの言う「気づき」を通して、私たちは自分が本当はどんな人間か、私たちの社会がどんなに違ったものになりうるかを知ることができるとソルニットは言う。
普段は憂鬱な社会に甘んじている私たちであっても、それに直面した時、変わる余地があることがわかるはずなのだ。
そういえばつい数日前、Twitterのタイムラインに、スーツを着る間も惜しんでTVに出演し、視聴者に落ち着くよう訴えたアナウンサーの話が流れてきた。
あの悪夢のような震災の後には確かに、ある種の道徳的な変化が残ったのだと思う。普段は見えにくいが、こうしてそれが光り輝くときもある。
私たちはまだしばらく、いつまで続くかもわからない災害の時代を生きていく。その中で、何かを掴み取れるだろうか。
いや、掴み取らずにはいられないのだろう。
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