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哲学することの意義の再考

AIが社会の構造を変えるのは間違いでしょう。

もの作りは極限まで最適化され、時間の短縮、低価格、高品質を実現していき今後ますます利便性の増した社会になるでしょう。


このAI普及の波は例えば農業では高確率で天気を予想したり、ビッグデータから需要と供給を察知して過不足なく無駄なく消費者に提供する。それも最低限の価格で。


働きかたも変わり、いわゆる事務職というのは真っ先になくなるだろうし、AIの技術的特異点(シンギュラリティー)を越えれば技術職というのもいずれは要らなくなるかもしれない。


ここで1つ言っておきたいことが人類は今以上に生きる目的を見失うのではないかということです。



我々人類は生存する過程において精神的な発達よりも物質的な発達を重んじてきた傾向にあります。

延命治療やクローン技術等は生命を、もっと言えば「死」を物質として捉えようとした最たる例です。


このように


「生きることとは」

「死ぬこととは」


に焦点を当てないで物体として見た自分に物質的な思想(科学技術)をあてがった結果、生身の人間をおき去った科学技術の最たるAIによって人類は危機に面しています。


もちろん科学技術の発展による利益の享受は大変感謝するところではありますが、いかんせん物事はバランスであるという主張です。


有史以来に人類が求めてきたものは利便性と快楽の追及です。


パソコンは凄く便利で、そろばんやワープロなんかには太刀打ちできません。

でもパソコンが普及してない時代はそろばんやワープロを使っていた訳です。

では何故パソコンが流行ったか?

実はここにこそ人間の倒錯ともいえる普遍的な価値観が存在します。

皆が使う理由はもう一度言いますがやはり「便利」だからです。

では何故「便利」を追及するのでしょう。

「時間を有効に使いたいから」

ではその時間は何に使うのでしょうか?

じつは余った時間は永遠に次の利便性と快楽の為の思案の時間と享受の時間に使われます。


快楽とはセックスやスポーツで感じる「楽しい」「嬉しい」「気持ちいい」といった感情や相手に尽くすことで得られる「忠誠心」「帰属意識」なども含まれると考えています。


AIの普及は最終的に究極の利便性をもたらします。

そして例えば性的な刺激は脳波に直接電気信号を送れば済むはずです。でなくてもVRと体に電極を埋め込めば満たされるようになります。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚さえ制御できれば実体験と呼べるでしょう。


さてさてAIが果てしなく進んだ世界は人類に何をもたらすのでしょうか?


少なくとも究極の幸せはこないと思います。

なぜなら利便性を高める為に快楽を享受するために苦心しているのにAIにその全ての答えを見せられることになるからです。

これって生きている意味を見出だせるのかなと思います。


この話の主題は「AIよ、普及するな」

ではなく、AIが普及するからこそ物質的な豊かさではなく精神的な豊かさを考える癖をつけましょうというものです。


何故かというと人の生きる意味は物質的なものに依存できなくなる時代が奇しくも物質的な思想の最たるAIによって知らしめられるからです。


自分が生きる為の術を身につけること以上に「自分が生きること」

「その自分とは」

を再認識することがこれからの時代に必要な知性かもしれません。

(ただし何十年後の話だよ)


次回は気が向いたら

「自分が生きること」

について書きます。


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