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「人に伝える文章」と「書き残す文章」の違い


 僕は腐っても、文章をよく書く人間です。
 いや腐ってないぞ誰がゾンビだ!(←言ってないよ)

……という書き出しから、この文章は「人に読んでもらうために書いている」のか、それとも「自分の記憶や記録を書き残しているのか」がわかると思います。
 だってほら、自分のための文章だったら「腐ってないぞ!」とかセルフのツッコミとか、書かないでしょ。人に読んでもらえるように、軽妙にしているわけで。
 というように、世の中には「人に伝える文章」と「書き残す文章」があると思うのです。ええ。

 そもさん、文章とはどちらの側面もあります。
 誰かに伝える前提のニュース記事は、もちろん第三者に伝わるように書かなくてはいけない。でも日記とか備忘録とかは自分で理解できればいい。
 なのにね。
 最近、なんだかニュース記事でも「わかりづらい」文章とか多くないっすか。あるいは「なんでそんな話するの?」っていうコメントとか、多くないっすか。
 それは「相手に伝えよう!」というスタンスで、書いてないからじゃないかと思うのですよ。

 2000年代に入ってからのブログの隆盛と、SNSの定着。
 僕はこれが、現在多く感じる「どっちつかずな文章」を作ってしまったと感じている。誰もが自由に表現でき、コメントでやりとりできる。気に入ったら「いいね!」とかできて人気の指標になり、「好きな芸能人とか、かわいい画像、紹介された動画を見て『いいね!』しただけ」なのに、書き手は「この文章が評価されている」と錯覚していく。
 言うなれば「文章以外」と「評価システム」が「どっちつかずの拍車」を掛けた。有名人が書くだけで「いいね!」される。何らかのインパクトがある画像を貼っておけば「いいね!」が増える。だからはっきり言って評価に対して「文章なんてどうでもいい」時代になってしまった側面がある。
 そうなると、副産物としてコメントする人も「どうでもいいコメント」を残すようになる。というのも、本文を読まないので主張を鑑みず、写真の感想だけ書き残したりイキナリ自分の思い出話をする人が頻発する。オマエはヤフコメかよ、と言いたくなるほどに。
 だもんで、たとえばパイナップルの画像をアップして、パイナップルが好きだった家族が亡くなった文章を書いたとしても「パイナップルおいしいですよね~!」なんて脳天気なコメントや、「小さい頃は高嶺の花で、代わりにバナナばかり食べてたなぁ……」なんて誰も聞いていない思い出話がコメントされたりする。昔から言われていた「文章嫁」なんだけど、画像添付により急増しているように感じるし、アップした当人はコメントを返しづらい。
 そのうちに、ニュース記事さえも「そういう気質のライター」が書いているのが見えてしまったりする。ツッコミどころばっかりの文章、っていうかね。

 そんな人たちが増えているからこそ、「他人に伝えるか、自分のため書き残すか」という文章の境界も曖昧になってしまった。だって有名人が画像さえ載せれば感想文だけでビシバシ「いいね!」がついちゃうから。ねぇ。
 そうなると、もう文章なんてテキトーになってしまう。どうせ伝える必要もないから。そのうちに、発信者も伝えようとしているのか残そうとしているのかわからなくなり、やがて「リンクを無言で貼るだけ」になる本末転倒。
 はっきり言いますけど、僕、そういうの「イヤ」なんです。文章が好きなので。校正もしていない公的文書(仕事として発信されているニュース記事とか)を見ると、ケッと路傍に唾を吐きたくなる。

 で、ようやく本題。
「人に伝える文章」は、言い換えれば「読ませようとする文章」。文章を組み替えたり表記をやさしくしたり、テンポをつけて読みやすくする。
「書き残す文章」は、言い換えれば「自分のための文章」。自分の思いついたことや知ったことを、とにかく形式自由で備忘録のように書き残す。
 その間にある差は、実は「プレゼンできているかどうか」なんです。

 人に伝えるためには、ひとつの文章を特定の人ではなく多くの人が読むこの時代、多数の人に読んでもらえるように工夫をする必要がある。それが「読ませるプレゼン」。でも自分のための文章だったらプレゼンなんてする必要ないもんね。
 上手な人は「自分のための文章だけど、他人でも読めるように改造する」ことができる。要は「他の人が読んでも理解できるように、楽しんだり興味を持ったりできるように」文章を改める。
 だから「文章のプレゼン」ができる人はどっちもできるんだけど、自分のための文章しか書いていない人にはそのスキルがない。なので反応がなかったり、反応しづらい。
 しかし問題なのは、最近多くなっている「人に伝える気のない文章」。
 やたら小難しい漢字ばかり使う人って、いますよね? カッコつけたい中学二年生みたいに。伝える努力をしないのに、反応がないとスネるっていう。プレゼンしていない文章だからもういいや、って無反応だと「何でみんなこんなすごいものに反応しないんだ!」とイキり出す。怖いよ。
 伝えようとする姿勢がないのに、本人は伝えているつもり。第三者的な視線がなく、自分の文章に何も問題がないと思っている。
 その差は何?

……結局のところ「サーヴィス精神」です。

 たとえば飲み会には、いろんな人がいます。全体を気にして盛り上がっていない席に移動する人。好きな人とだけ話せればいい人。誰とも話さず自分だけ飲んで楽しければいいやって人。
 それぞれ「伝える人」「自分の人」「伝える気のない人」じゃないかと思うんです。いや極論ですけどね。
 もちろん楽しみ方は多種多様。人による。でも「全体が『楽しかったなぁ』と思える飲み会」は、盛り上げてくれる人ありきじゃないですか(←同意を要求して方向を定めるズルい書き方)。
 文章だって「みんなが読める」ほうが、当然ながら反応は多い。ホントそれだけのこと。
 でも文章って「自我が住まう場所」なので、どうしても固執しがち。直木賞より芥川賞を目指しがち。無理なのに(←あっ)。

 僕のバイブルである『G戦場ヘヴンズドア』(作:日本橋ヨヲコ)という漫画の中に、こういうセリフがあります。
「誰でも楽しめるマンガを書くのが、一番難しい」
 これは僕が勝手に師匠だと思っている、音楽ライター時代に世話になった人物が言った言葉と同じなんです。
「誰でも読める文章を書くのが、一番難しい」
 彼の言葉を聞いて、僕は自分が「自分のために文章を書いていた」ことに気付かされたのです。どーん!(←喪黒福造バリの衝撃を受けた音)
 あくまでも、文章の良し悪しではありません。伝えようとしているかどうか。そこに「伝えよう」という意思が感じられるだけで、その文章はガゼン目にも脳にも入ってくる。そういう文章の前では、漢字と思い出と感想だけの文章なんて目にも入ってこない。

 そういうわけで。
 その人自身が、どうなのかは知らない。でも、人に読んでほしいのであればそれを自覚できているといいな、と思うのです。
「誰かに読んでもらう前提で、それを書いているのか」を。

 この文章も、ほとんど自分の感じたことを書いてるだけなんだけどね(←って落として予防線張る人も多いよね)。
 読みやすくていい文章は、目にもおいしいんです。絵本と同じです(←と良きパパであることをさりげなく主張)。

 日々、鍛錬と「自分も楽しめるかどうか」ですわ。ホント。

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