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#134 まっとうさの狂気

 くわーっとなった話をするので10万人に一人くらいは同じようにくわーってなってくれる人がいたらいいなと思った。

 『ダンジョン飯』、最後まで読みましたか。あたしは読みました。すごかった。広げた風呂敷をきちーんと畳みきった感じ。で、読んだ後にくわーっとなり、しばらく放心したり悶えたりしていた。この感情はなんだろうなにかしら、つらつら考えるに、狂気のようなものに当てられたのであろう、という結論にいたる。なぜ、あんなにまっとうに終わってしまったのか。しまえるのか。
 当方が文藝畑の人間だから、というのもあるのだが、ある物語に対して、どこかでこちらの期待を裏切ろうとしてくるのではないか、という人間味を無意識に期待してしまう。もしくは人間だから、物語を紡いでいくうちに帳尻が合わなくなったり、だんだん物語を終わらせるのが面倒になっておざなりな収束を迎えたり、というところに文芸作品らしさを感じてしまう。

 いっぽう、たまたま同時進行で読んでいた多和田葉子『献灯使』、日本が鎖国して、老人は100歳を過ぎてもそのまま頑強に行き続け、生まれてくるこどもはどんどん脆弱になっていって歩くのもおぼつかない、みたいな壮大な世界観を提示しておきながら、最後は15歳に話が飛んで、すっかり歩けなくなった主人公(車椅子)がむかし近所であった女の子と砂の上でもつれて性が目覚めて、みたいな投げっぱなしなオチのつけ方をしているのを見ると「ああ、これこれ」なんて妙に安心したりする。(あ、収録の「韋駄天どこまでも」オススメです)

 たとえば、史書であるとか、英雄譚であるということであれば「勝った側の歴史」としてその偉業を正確に描ききろう、という姿勢が見えるのはわかるのです。それは当時の史家としての仕事だったろう。が、レッドドラゴンに食われた妹が消化される前に(ダンジョン内の魔物を食べながら)助けに行く話、にしては記述がまっとう――あ、書いていて気づいた。あ、そうか、これはライオス王の偉業をたたえた「叙事詩」なのか。……そうとでも考えないと、この「ライオスはみごとダンジョンを片付けて王様になりましたとさ、どっとはらい」というオチに対する整合性が取れない。
 もともとは、この「物語の真っ当なおわらせ方に対する作者の狂気めいたところは、そのままライオスの狂気ぶりに通じるものがあるなあ」という話をしたかったのでありますが、そもそも叙事詩としてプロットを組み立てているのであれば、書き方として大いにアリ、という結論に至ってもいいのかもしれない。

 ちなみにいちばん好きなエピソードは動く鎧が貝の仲間(的なやつ)だったやつなので映像化されたのを観られて大変ようございました。

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