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愛と恋の違いを真顔で考えてみる

愛と恋の違い真顔で 語り合うほど青かない

ASKA「I'm busy」より

 大人になってまで、愛と恋の違いについて語る人は少ないだろう。みんななんとなくわかったような顔をしていて、なんとなくわかったような顔をしなければいけない顔をしている。

 しかし、本当に愛と恋の違いについてはっきりとした解釈を持っている人はどのくらいいるのだろうか。

 かくいう私ははっきりと区別しているが、それを言語化しようとすると中々に難しいものがある。今回は異論反論の湧きそうな、暴論極論満載な私の持論について語っていこうと思う。

恋とは、病である


 まず前提として話しておきたいのは、恋という病はそもそも発症したことが無い人間が一定数おり、かつその事実に本人も気づいていないということである。

 他人の心は覗けないのであくまで仮説ではあるが、一定の人間は恋というものを理解できず、しかしこれもまた他人と比べられるものではないから、自分の中にある”恋らしきもの”を恋と呼んでいるのではないかと考えている。

① 恋は嫉妬

 朝起きて、まず最初にその人のことを考える。何をしていてもその人のことが頭から離れない。ずっと一緒に居たい、離れたくない。もっと知りたい、知ってほしい。いま何をしているか気になるし、他の異性と話していると嫉妬する。これらが恋という病の症状の一部だ。

 先に挙げた症状の中に、”嫉妬”というものがあるが、こういった嫉妬をしないという人間も見かける。しかし私は、この嫉妬こそが恋の本質であると考えている。なぜなら恋とはそもそも、独占欲から生まれる熱病だからだ。動物的に考えるのであれば、人間の遺伝子に刻まれている本能は自分の子孫の繁栄であり、その為に相手を見つける必要があり、その相手が他の人間にとられるわけにはいかない。すなわち独占欲から生まれる恋には、ある一定の束縛欲が生まれるのが必然と言える。

 嫉妬を伴わない恋というものが本当に存在するのか甚だ疑問である。いや、もういっそ、失言や批判が怖くて言えない大人に代わってあえて断言してしまおう。それは恋ではなく、恋のようなものだ。

 恋と同列に語られる”好き”という言葉がある。恐らく恋らしきものをしている人間に、「その相手のことを好きか」と尋ねれば、「好きだ」と返ってくるだろう。ここが厄介なところだ。それは好きという言葉に当てはめられるというだけで、恋をしているかどうかとは別物だ。

 ”恋らしきもの”をしている人間は、マンガやドラマや世間で言われている恋というものを実際には正しく理解していない。しかし、自分の心の中から”恋らしきもの”を探して「えーと、これかな? 恋ってやつは」という調子で、無自覚に恋らしきものをあつらえているのではないだろうか。

②恋は冷める

 私の言う恋とは病であり、燃えるような熱を一定期間発した後、冷める。この”冷める”という部分に異論がある人もいるだろうが、できれば最後まで聞いて欲しい。ここが愛と恋の違いについて重要なところだ。

 例えば何十年付き添った夫婦で、ずっと相手に恋をしているという芸能人なんかを見かけることがある。しかし、私の言う恋は、冷める。この違いをなんとするか。またしても私の暴論タイムになるが、それは恋ではなく、愛である

 何十年付き添って、その間ずっと恋をしているなど、風邪を何十年引き続けているのと同じぐらい不自然なことだ。これもまた面倒なことに、当人に「相手を好きか?」と訊ねれば「好きだ」と答えるだろう。しかしそれは恋をしているという意味の”好き”ではない。相手を好意的に見ている”人間的な好き”か、あるいは””である。

 ”愛”という言葉を”恋”や”好き”の強化版のように考えている人をよく見かけるが、私は全く別物だと考えている。そもそも”好き”という言葉が、好意的に見ている場合と恋をしている場合の両方に使われるから解釈の齟齬が発生し、それを元に人それぞれ別の概念が構築されて、私のような面倒な人間が目くじらを立てて愛と恋の違いについて語るような事態に陥っているのだろう。

 恋という熱病に一瞬で燃え上がり、冷める。「じゃあ長い期間付き添っている恋人は夫婦は恋をしていないのか!」と言われそうだが、その通り、していないのである。それはもう恋ではなく愛に変わっている。

 恋という熱病から愛を育むことを、”恋愛”というだけだ。

愛とは、情である


 では愛とはなんなのか。

 私の思う愛とは、そもそも恋愛に限ったものではない。家族愛、友情なども愛に含まれる。いわゆる””だ。

 これは恐らく、時間に関わるのではないかと考えている。家族とも友人とも長い時間を共にする。結果、情が生まれる。例えば無人島に漂着し、生き残った好意的ではない人間との間にも、長い時間を過ごせば情は生まれるだろう。これらは全て”情”であり、”愛”である。私にとって愛と情はほぼ同じ意味だ。

 だからその愛が家族の間に生まれるのは家族愛だし、恋から生まれるのは恋愛である。それだけの差だ。

 「カバチタレ」という私が好きなドラマに、愛をよく表しているシーンがある。

 ある老夫婦の夫が事故で昏睡状態になる。主人公の常盤貴子と深津絵里は、意気消沈している妻に話を聞く。おばあさんいわく、最初は夫のことなど全く好きではなかったと言う。決められた結婚だったからだ。戦後の貧しい生活の中で、ある日を境に、夫が当時手に入れるのが難しい握り飯と卵をひとつ持って帰るようになった。不思議に思いながらも毎日持ってきてくれる握り飯を喜んで頬張っていた。それが続いたある日、夫が痩せていることに気づいた。夫は自分の分も妻に渡していたのだ。理由を問うとこう答えた。「お前のお腹には、俺の子がいる。俺には守るべきものが二つもあるんだ」。それを聞いた時、一生この人についていこうと決めた。

 これがまさに、愛だと私は思う。愛というものは、恋からしか生まれないものではない。ましてや恋の強化版などでは決してない。お見合い結婚の方が離婚率が低いという話があるが、長い時間を共に過ごせば愛は誰との間にも生まれるのだ

まとめ

 恋とは熱病であり、嫉妬を伴い、激しい熱にうなされる。しかしそれは一過性のものであり、それ以降は時間を伴って愛に変わっていく。

 極論、暴論と思われる部分もあったろうが、いかがだっただろうか。仮に間違っていたとしても、所詮私はそう思う、というだけの話で、馬鹿な奴が間違ったことを言っているだけの話なので、あまり気にしないで欲しい。逆にもし、考えの一つとして面白いと思っていただけるなら、寄付するつもりでスキやフォローをいただけたら嬉しい。

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