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家族への手紙 ①

ワタクシ、5人兄弟で平均的な家庭と比べると家族が多いのですが、毎度、順に名前を言って指折り数えながら思うことは、「あれ、こんなだけだっけ」ということです。他の兄弟はそうは思わないみたいなので、ワタクシが変人なだけみたいです。

さて、そんなワタクシたち家族ですが、世間一般より仲は良いと踏んでいたのですが、現在ワタクシの中ではある種”恨み”のようなものが凝り固まっていることが判明いたしました。末っ子ですから、上の人間を観察、分析することが常ですが、「まあある程度して大人になって自分も自分の中の幸せを感じるようになればそのうち許すだろう。過去は美化されるのだから。」と思う次第です。
ワタクシが唯一の例外になる可能性は否定できませんが。

5人兄弟というのは、良くも悪くも5人で助け合いながら大きくなっていくものなので、そりゃ仲がいいです。例えば、学校では静かな兄も家ではいつも騒ぎ回っています。その姿はまるで大親友のように。ですが、どんなに仲のいい兄弟であっても、この荒漠たる人間世界においては綻びが生じます。それに誰かが気付いて一緒に立ち止まり直すことができるか、知らんぷりして押し通して糸が切れてしまうかはその家族次第でしょう。ですが、家族というのは不思議なものでたとえ糸が切れようとも結び直すということができるようです。

兄弟だからと言って、気が合うかとはかぎりません。それどころか家族でなければ、何でもないという極めて奇怪な存在になりかねません。もしかしたら、「家族だから〇〇」というのは呪縛、あるいは自分が苦しまないように服用する薬なのかもしれません。たまに思う「小さい頃はあんなにくっついて仲良しだったのになぁ」という記憶は現在からの逃避行動かもしれません。

生き方というのはなんぴとも他者から決められるものでなく、また他者に強要するものではないでしょう。ですが、祈ることは、願うことは許されるはずです。それがときに呪縛になろうとも、愛という視点からみたときに内容はともあれ嘘はないのではないか、だとすれば互いの幸せを願い続けるくらいのことをしてもバチは当たらないように思います。

今のワタクシには家族全員に対して明るい気持ちで接することはできませんが、自分を愛し続けてくれた人や不器用ながらワタクシを思い続けてくれる兄弟の一面を知っているので、まだ少し家族という不思議な存在を想い続けてみます。

家族という車の後部座席に乗っている今と、自分が運転席に座り後部座席に人を乗せるときとでは手紙に書くことも異なるでしょう。いつか来るそのときにしっかりと老いぼれの役を買って出ることのできるよう、せいぜい必死に後部座席を味わおうと思います。




寒い夜に”ゆうたんぽ”と呼ばれぬくぬくだった末っ子 ユウ





P.S. 衝動的文章に逃げる癖は健在のようです。

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