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【高校野球】慶應の「応援批判」はなぜ哀しいのか

 昨日、夏の全国高等学校野球選手権記念大会優勝を決めた慶應義塾高校に対し、残念ながら世間は「祝福ムード」一色とはならなかった。慶應がかかげる「エンジョイベースボール」に対する様々な意見だけでなく、甲子園での「応援」が圧倒的であったことから、「仙台育英高校との差がありすぎて不公平だ」「仙台育英のプレーを萎縮させたり邪魔をしていた」等の批判があがっているからだ。

 私は主にSNS上でくりひろげられるこの議論には哀しさしか感じない。
批判する方もされる方も、ただただ哀しい。日本の格差社会、それによる分断を象徴しているようであり、またその分断を煽って閲覧数を稼ごうとするネット記事のレベルの低さにうんざりする。

 慶應義塾高校が今回批判されたことと、「慶應学閥」に対する世間のそもそもの印象は決して無関係ではないだろう。
 それは「ひがみ」という単語で簡単に処理できないもっと根深い問題だ。「慶應ブランド」が与える、頭脳明晰、裕福、スマート、悪くいえば「お高くとまっている」という印象は、「慶應ボーイ」という言葉に凝縮されている。もちろんこれは私個人のイメージかもしれないが、「早稲田」や「東大」とは全く違うことは明らかだ。

 そんなイメージをもたれやすい「慶應」と、タイパが悪く、根性だの伝統だのが大事にされてきた野球というスポーツはハッキリ言って相性が悪い。 
 逆に言えば、泥臭い野球で「慶應ボーイ」のような鼻持ちならない奴らを倒してきた(と思っている観戦者)にとっては、唯一「勝てる分野」だったのだ。
 それを今回「エンジョイベースボール」や「さらさらヘア」や「笑顔」で優勝をかっさらわれては、もうどこをとっても勝ち目がないという気分にさせられる。批判している人たちの中に、そうした人たちが少なからず混じっているからやっかいだ。
 
 対する「仙台育英高校」には、そうした人たちが思い入れしたくなる要素がたくさんある。
 
 ただ実際はどちらの高校も「新しい野球」を体現している。にもかかわらず、周囲に勝手に「VS」扱いされているのを見ると本当にバカバカしい球児たちは別に「日本の格差社会やそれによる分断」を背負って戦ったわけではない。野球というスポーツには勝者と敗者がいる。それだけのことである。

 それとは別に、これを機に「応援のあり方」を議論するならそれはそれで良い。「高校野球は教育の一環である」という理念を突然持ち出し、公平であるべきだというのであればルール化すれば良い。
 だとすれば、見直すべきことはもっと色々あるはずだ。「教育の一環」であるにもかかわらず、高校野球は様々な面で商業化されている。
 球児たちの汗や涙は「美談」として消費され、さまざまなコンテンツとなってお金を生んでいる。今回もまた同じ構図だ。「慶應の圧に耐えて頑張った仙台育英」・・・そんなタイトルの記事がいくつあるか。
 こうして対立や美談をつくりあげ、その「うまみ」を手にする大人たちによって、結局高校生たちが傷つき犠牲になっている。優勝したのにまだケチを付けられる慶應の生徒たちはどれほど傷ついているだろうか。
(そしてそんなタイトルで閲覧数を稼ごうとするライターもまた必死なのだと同情する)
 
 話を戻そう。
 私が今回の件で強く思うのは、応援団がどうだこうだと議論するなら、まず炎天下での開催について本気で議論してもらいたい。グラウンドに倒れる選手をテレビが生放送で映し出し、悲しい結末を迎えるまで誰も本気で動かないのか。
 その最も大切な議論から世間の目をそらすために、今回「慶應の応援」がやたらとやり玉にあげられている気さえするのだが、それは私の考えすぎだろうか。
 

 

 



 

 

 

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