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ロシアのウクライナ侵攻の理由は本当にNATO加盟問題なのか?

4日前、ロシア軍が突如ウクライナに侵攻しました。
圧倒的な戦力差にも関わらず、ウクライナ軍は奮戦し、今日まで首都キエフ、第二都市ハリコフを守り向いています。
また、多くのウクライナ国民も又祖国を守るために立ち上がりました。
最初は彼らを見捨てるかに見えたアメリカ・EUをはじめとした国際社会もついにその姿に動かされてウクライナに対する軍事支援に踏切り、同時に国際金融からのロシアの排除など、かつてない強力な圧力をかけつつあります。
今全世界がウクライナに目を向けているといっても過言ではないでしょう。

しかしその一方で、ロシアの侵略を目の当たりにしながら、ロシアも悪いけど、ウクライナにも問題がある、とその動機に一定の理解を示す人たちも多くいます。

彼らは言います。

そもそもNATOを東に拡大させないという約束を破ったのはアメリカだ。(因みにゴルバチョフ元大統領はドイツと統一問題の際、そんな話が出たことはないと明確に否定していますが)
そしてロシア人にとっては格別の思い入れがあり、戦略的な重要なウクライナのNATO入りをプーチン大統領が認めないのは、安全保障上理解できなくもない。
そのロシアの意向を無視し、NATO入りを強行しようとしたウクライナのゼレンスキー大統領の無策が、このような事態を引き起こしたのだと。

NATO加盟30ヵ国


しかし本当にそうなのでしょうか?
それは別の目的を隠すための、ロシアのプロパガンダの可能性は本当にないのでしょうか?

そのことを考える前に、まずウクライナとNATOの問題を、きちんと時系列で追っていくことにしましょう。
(なぜか日本ではロシアの直接の開戦理由となっているネオナチからの解放に触れている人がほぼいないのが不思議ですが、それはまた別の機会に触れることにします)

ウクライナのNATO接近は20年以上も前からだった


さて、ウクライナがNATOと接近したのはかなり古く、ソ連崩壊直後の1994年にまで遡ります。
ウクライナはNATOとの間で「平和のためのパートナーシップ協定」に署名し、1997年には「ウクライナ・NATO間の特別な関係に関する憲章」を結びNATOとの関係強化しています。
実はウクライナとNATOとの接近はゼレンスキー政権に始まったことでは全くないのです。

そんな中2001年9月11日にニューヨークで同時多発テロが勃発します。
集団安全保障の必要性を感じたウクライナは、2002年遂にNATO加盟に向けた具体的な協議に入るに至ります。
2005年に親欧米派のユーシチェンコ政権が発足すると、いよいよ両者の関係は密接になります。
もはやNATO入りは目前に見えました。

しかしこれに親ロシア派が反発します。
激しい議論の中で親ロシア派は議会を実力で封鎖、1ヶ月以上も議会が空転する事態となってしまうのです。
流石にこのまま行くと内戦になりかねないので、結局妥協案として、2008年3月に「NATO加盟は全国レベルの国民投票の結果によってのみ決定される」こととなります。

NATOのブカレスト会議 今思えばこの時ウクライナがNATOに加盟していればこの悲劇は起こらなかった

これを受けNATOの方も、同年のブカレスト会議において、ウクライナの将来的な加盟は検討するものの、加盟申請自体は見送りとすることが決められました。ちなみに同じ会議で、この年ロシアと戦うことになるジョージアに対する加盟申請も拒絶されています。

その後ウクライナで親ロシア派であるヤヌコーヴィチ政権が誕生しました。
ヤヌコーヴィチ政権は、NATO加盟の方針を転換。
ウクライナを中立国として、あらゆる軍事政治ブロックへの参加しないという法律を定めてしまいます。
これによりウクライナのNATO加盟は事実上不可能となり、現在に至っているのです。

ロシアのクリミア侵攻で再びNATOへ接近するウクライナ


しかし2014年、大きく事態が動きます。
親ロシア派であるヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、ペトロ・ポロシェンコが新大統領に就任したのです。
ポロシェンコ自身は決して反ロシアというわけではなかったのですが、政権の崩壊に危機を感じたロシアは、クリミア半島に侵攻。
たちまち半島をロシアに併合してしまいます。
これに力を得た親ロシア派の強い東部のドネツク州とルガンスク州では反政府運動が激化。
ここにもロシア軍が介入し(正確には謎の義勇軍と称するロシア軍)、ドンバス地方と呼ばれるこの地域の一部が事実上ウクライナから切り離されるという事態となったのです。

2014年のドンバス紛争とロシアのクリミア併合


流石のNATOもこれに反発。緊急会議を開き、ポーランド、バルト3国の防衛強化を打ち出し、同時にウクライナ軍の能力向上に向けた支援に乗り出します。
しかしウクライナの希望に反し、ウクライナのNATO加盟自体は議題にもぼりませんでした。
それはドイツ、フランス、イタリア、オランダがロシアとの関係悪化を恐れて反対したこともありますが、NATOには既に紛争当事者となっている国は新たに加盟できないという規定があり、手続き上不可能だったからです。
そんかこともあって、そもそもドンバス紛争自体、ウクライナのNATO入りを阻止するためのロシアの自作自演だったのではないかという人さえいるほどです。

因みにウクライナへのNATO加盟申請自体は、先ほどの通り2008年に出されていて、ここで新しく申請したわけではありません。
実はヤヌコーヴィチ政権でも取り下げていなかったというだけなのです。

そして、この状況は実は基本的には今に至るまで何も変わっていないのです。
実際のところウクライナのNATO加盟申請は、その後ずっと放置され続けました。
その後も再三兵力を集めて軍事的圧力をかけてくるロシアへの対抗しようと、昨年9月にはゼレンスキー大統領がアメリカのバイデン大統領と直接会談し、NATO加盟の是非をただしましたが、バイデン大統領はその可否は答えませんでした。
むしろ今年1月にはバイデン大統領は「ウクライナのNATO加盟は当面ないだろう」と否定すらしています。

ルーシの再統一がプーチンの願望か?


では、なぜウクライナのNATO入りが迫っているわけでもないこの時期に、ロシアは突然NATO参加を理由にウクライナを侵略したのでしょうか?

ここまでの経緯を見るに、この問題は今に限らず20年以上も続き、しかもせっかく2008年にウクライナ自らが中立を決めたのに、むしろロシア側からそれをふいにし、ウクライナをNATOに接近させるような行為さえとっているように見えます。
2014年のクリミア半島併合も然り、そして今回の侵略だけでなく、過去再三国境に大兵力を集結させて、軍事的威圧を加えたこともそうです。

ここから推測できることが一つあります。
それはロシアが、いやプーチン大統領が本当に欲していたのは、ウクライナがNATOに加盟しないという保証などという小さなものではなく、真の狙いはウクライナの国土そのものだったのではないか、ということです。

キエフがウクライナとロシア両方の歴史的母体であるルーシの首都であったことは今回の侵略でよく知られるようになったので、多くの方がご存じだと思います。
確かにウクライナ人とロシア人は同じ東スラブ人であり、多少の違いはあれど民族系も非常に似ており、歴史的には共通の時を過ごした年代も決して短くはありません。

しかし実際には歴史的にも、文化的にもウクライナとロシアはやはり異なる国なのです。
ただ問題はウクライナ人はそう思っていても、ロシア人、いやプーチン大統領はそうは思っていなかったことです。

侵攻開始の日、プーチン大統領は1時間にもわたる開戦理由の説明の中、30分以上もかけてウクライナはレーニンによって作られた人造国家であり、本来ロシアと共にあるべきだという彼の独特の歴史観を延々と説明しています。
既に70歳近くになったこの独裁者の頭にあったのが、造られた国家ウクライナを元のあるべき姿に戻し、ルーシの再統一という歴史的偉業を成し遂げるというロシアにとっての正義、実際には狂気であったとしても、何の不思議もありません。

2月26日ロシア国営RIA Novostiのサイトに、プーチン大統領がこの戦争で何を得ようとしたのかという考察記事がアップされ、その後すぐに削除されました。

26日にロシア国営RIA Novostiのサイトにアップされた解説記事

これはロシア軍が迅速な勝利をする前提で造られた予定稿だったと思われますが、記事中プーチン大統領は、キエフ陥落直後にロシア、ウクライナ、ベラルーシという「ロシア国家の3つの部分すべて」を含む新しい国家を発表し、勝利の統一者、救世主、そして「ロシア世界」の指導者となったと述べられていました。

この記事の内容が正しいものなのかはわかりません。
しかしある意味プーチン大統領の内心を代弁したものであったと考えることもできます。
そうしたことを考えると、NATO問題というのは、実はその本当の野心を隠すための、ある意味ちょうどいい大義名分だったのではないかと私は思うのです。