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『JOKER』 #3 アーサーの目的



前置き

お久しぶりです!ばっつです!このページを開いてくれただけでも大変嬉しいです。ありがとうございます。最近はコロナのせいでお家にいるばかりですね…何をしていますか?

暇な時やふとした瞬間にしていることは、案外あなたの譲れないこだわりだったり、個性に繋がったりするので深く追求してみると良いかもですよ。集団主義が蔓延する日本においてそのような強い自分らしさを見つけるのは難しいですが、ヒントは近くに転がっているものです。スマホやテレビやパソコン、気を紛らさせるものを全て取り払って、自分を見つめる時間を作ってみるのも良いかもですね。

人生における信念を見つけると、人生が色鮮やかになるものです。


『ジョーカー』解説の前回までのおさらい

さてさて、洋画"Joker"(『ジョーカー』)の解説、しかも最終章に突入しましょうか!

# 1では『ジョーカー』を題材に「狂気とは何か」、#2では「何故人々は悲劇を観て楽しむのか」について哲学的・文学的考察をしているので一読ください。上手く全て繋がっているので、読むことがオススメです、、、笑

それぞれ下にページを載せているので、参考にお願いします。



※ここから本題です。

さて、今回は、大ヒット映画『ジョーカー』解説の最後である。この映画は、悲劇に満ちた主人公がD Cコミックスで最も悪名高きジョーカー となるまでの軌跡を描いたものだが、映画に含まれる危険性とジョーカーの本質を突き止めていこう。

前回までに、「何故人々は悲劇を観て楽しむのか」という問いを、カタルシスという言葉を用いて説明してきた。『ジョーカー 』における悲劇的描写とアーサー・アレックことジョーカーの特質は、見事に観客の鬱憤やストレス、言い換えればカタルシスを浄化させる映画であると言えるのだ。


しかし、楽観的観測だけでは終わってはいけない。この映画にはある危険性がまとわりついている。#2の「疑問」でも提示したが、カタルシスによって感情を浄化できた観客は、ジョーカーに感化され、現実で問題行動を起こしてしまう危険性である。つまり、ジョーカーのように犯罪のプリンスになることを憧れ、映画の虚構を現実の延長線上として認識し、現実を見誤って犯罪を犯してしまう、、、というものだ。

映画本来に寄生する危険性

そもそも一部の映画制作者や映画評論家はその問題と対峙してきた。我々は日常から逸脱し、映画を楽しむために映画館に訪れるのだが、その映画には嘘が存在する。『君に読む物語』や『あと1センチの恋』などの恋愛映画を観た次の日、多くの人は「今日赤い糸で結ばれた誰かと会うに違いない」という理想を描いて街に出かけるだろう。(映画は面白い)

また、『ファイトクラブ』のようにブラッド・ピットのようなイケメン俳優が喫煙する映画を観た翌日には、例え禁煙者であってもタバコを購入しているかもしれない。

このような恋愛や喫煙、飲酒などが映画で描かれる場合、大抵美化されるか、望まない妊娠や喫煙による肺癌などのリスクは描写されない。全ては観客を魅了し、現実から突き放し夢物語へ誘惑するための嘘なのである。

そう、映画はそれ自体が虚偽であると同時に、内容にも虚偽が内在しており、時としてそれは観客を望ましくない方向へ導いてしまうのだ。物語の良し悪しは別として。

ジョーカー の役割

話を『ジョーカー 』に戻そう。ここで、ジョーカーに隠された役割を明らかにしていく必要がある。多くのバットマンの別シリーズに当たって、多くの人がジョーカー に惹かれているように、ジョーカーは作品内に登場する人物をも魅了し、彼らを犯罪に加担させる。(アメリカンヒーローにはユニバースシステムというものがあり、ヒーローやその悪役が同じ世界観を共有している。よって全ての人物が設定を共有しているわけではないことを明記しておかなければならない。今回の『ジョーカー 』に登場するアーサー・アレックは他の作品のジョーカーとは別物である。)


2008年にクリストファー ・ノーラン監督が制作した『ダークナイト 』をご存知だろうか。

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これはジョーカーの役割を説明する良い例である。『ダークナイト』に登場するジョーカー は、「悪を犯させる存在」として明確に描かれている。彼は犯罪者のみならず善なる警察官までも言葉巧みに悪の言葉を囁いて、彼らに犯罪を犯させる。最も善に近しいだった地方検事のハーヴィー・デントという人物さえも、ジョーカー は悪人に変えてしまった。そして主人公のバットマンにさえ殺人という悪を犯させようとしたのである。つまりジョーカーには、「人々に悪を犯させる」という役割が存在していると言える。その片鱗はバットマンの他シリーズにも現れているため、興味のある方はバットマンシリーズをご覧ください。


『ジョーカー』の真髄:彼がやろうとしていること


では『ジョーカー 』におけるジョーカー は誰に犯罪を犯させようとしているのだろうか。もちろん映画でも描写されていたように、資本社会に存在する不正や不条理によって虐げられてきた市民や、致し方なく犯罪者の道を選ばされた犯罪者かもしれない。

しかし、果たしてそれだけだろうか。

前回の記事で論じたように、『ジョーカー 』はカタルシスを浄化することに優れた映画だ。アーサーの悲劇を目の当たりにしながら、我々は、普段社会に抱いている不条理や不正に対する苛立ちを高めていく。その苛立ちは最後まで募るかと言えばそうではない。アーサーが自分らしさを表出しジョーカーになるにつれて、徐々に我々の苛立ちはカタルシスとして浄化され、最後のシーンでは、ジョーカーへと変貌すると同時に我々のカタルシスが一気に浄化される。「社会の底辺者を笑い者にし、甘い汁だけ吸っている上流階級の者ども、ざまあみろ!!!」といった風に、我々の苛立ちは空高く舞い上がり、消化されるのである。この瞬間、普段忌み嫌っているはずの犯罪行為が、我々の苛立ちを発散させる気持ち良いものになってしまうのである。ある種の気持ちよさを感じた観客は、ジョーカーに魅力を感じ、かっこいいとさえ思い、劇場を後にする。ジョーカー は凄惨な犯罪行為を行なっているはずなのに、、、、、、、、、、、。


さてさて、お分かり頂けただろうか。

ジョーカーが悪を犯させようとしていたのは誰なのか。そう、我々観客であると考えることができる。我々はジョーカーの生き様を観てカタルシスを感じてしまったこと、そしてジョーカー は人々を悪へと牽引し、「悪を犯させる存在」であることを踏まえよう。

これはアーサー・フレックがジョーカーになるまでの軌跡を描いた映画ではない。ジョーカー自身が我々に犯罪を犯させるために創造した映画である。ジョーカーはあたかも自身が社会に虐げられた一般人であるかのように演じ、我々の感情を揺さぶり、最後には我々観客を魅了し悪を犯させようと試みているのだ。最初に述べた映画本来が持つ危険性を利用し、観客に偽りの現実感を与え、誤った道を選ばせようとする。実に、ジョーカーらしい映画である。

いつの間にか我々はジョーカーに悪の道へと牽引されていたのである。実に恐ろしいものだ、、、。


『ジョーカー』による我々が得るべき教訓


しかし、逆から捉えてみれば、この映画は映画そのものが持つ危険性を前景化させているとも言える。決して犯罪を犯してはならないと普段思っていても、『ジョーカー 』を観ることで一瞬でも犯罪に魅力を感じてしまった場合、映画は単なる虚構ではなく現実に深い影響を与えるものであると確認することができる。並びに、社会システムへの痛烈な批判を感じることができるだろう。ジョーカーが映し出した社会の不正や不条理は決して嘘ではない。嘘であるならば、我々はカタルシスを感じないからだ。誰しも社会の不安定さに気づいている。その社会問題を考えるきっかに十分なり得る。

そして、我々は普段、「犯罪者」という言葉を聞いただけで、その者を一瞬にして完全悪なものとして捉えてしまう。果たしてアーサーが、社会によって適切な支援を得ていたら?家族に愛されていたら?誰かが心の拠り所になっていたら?結果は全く変わっていたかもしれない。もしかすると犯罪者を生み出しているのは、社会なのかもしれない…と考えることができるのだ。

以上、『ジョーカー』解説である。

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http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/


ちなみに、文学作品・映像作品、人が作ったものの解釈は人それぞれである。筆者自身もいろいろな解釈を聞いてみたいので、是非ともお話したい。まだ見ぬ解釈は至る所に転がっている。



今日の英語

commit a crime 「犯罪を犯す」

heinous  「凶悪な」

ライザップでもよく耳にする「コミットする」のコミット(commit)とは、「責任の伴う約束や目標や目的に対して積極的に関わる、責任を持って引き受けるという意思表示のこと」を意味するので、ぜひ覚えましょう。もちろん犯罪も責任は自分自身で取らなければならないので、コミットを使用します!!


See you!!!!!!!!

hahahahahahahhahahahahahahahahahahahahahahahaha


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