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【雑考】幻想文学から幻想的な短歌への誘い(その2)


長瀬正太さん撮影

例えば、幻想的な詩なら、

それでは、俳句なら、

「手をつけて海のつめたき桜かな」岸本尚毅

「水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も」有馬朗人

有馬朗人さん著作の本書から、「ひらめき」と題されたエッセイより、抜粋して紹介してみると。

「ゆっくり行こう」(ふらんす堂文庫)有馬朗人(著)

”俳句の要諦を「眼前直覚」(※)と言ったのは、畏友・上田五千石であった。

見た瞬間のひらめきを俳句にするということであろう。

芭蕉も「物のみえたる光、いまだ心にきえざる中(うち)にいひとむべし」と言っている。

実は五千石の説はこれに基づいている。

このように、見た一瞬に「できた」と思い、即座に俳句にすることも作句法の一つである。

一方、吟行や机に向かっている時、すぐには俳句にならなくても、印象を覚書しておいて、ゆっくり考えた上で作る俳句もある。

この覚書の書き方にもいろいろな流儀がある。

常に句帳をたずさえていて、思いつくままに書きつけていくのが一方にあれば、心が動いたことの印象をよく記憶しておいて、あとで句帳に書きとめたり、一句にまとめたりするという作句法もある。

私は句帳を片時も離さず、覚書をしょっちゅう書き込んでいる。

一方、句帳を持たない主義の一人が五千石であった。

私自身が瞬時に作れた俳句でいくつか思いつくままに書いてみると、

 水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も
 
 草餅を焼く天平の色に焼く
 
 光堂より一筋の雪解水

などである。”

また、上田五千石さん著作の本書から、内容の一部をご紹介してみると。

「俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門」上田五千石(著)

”【眼前直覚~「いま」「ここ」に「われ」を置く~】

俳句は「いま」ということ、「わたくし」ということを大切にする。

「只今眼前」であり「たった一人の私」である。

時空のこの一期一会の交わりの一点に於いて一句はなる。

昨日の私でもなければ明日の私でもない。

だからこそ、俳句は「言い切る」ことを絶対とする詩型なのだ。

煖房の車窓から見て、冬の田を詠ってはならない。

冷房のビルの窓から見おろして、日盛りの町を句にしてはならない。

眼に見えているというだけで、眼前とはいえない。

対象と同じ空気の中で、真に見なくて、直覚のすべはない。

決して「他人(ひと)ごと」の句をつくってはならない。

そこにそれが在るから写しとる、というのでは写生といえない。

「もの」と私が、のっぴきならない関係になるのを待って、はじめて独自の視角が生まれる。

「他人ごと」の句は俳句ではない。

「自分を入れなくては俳句にならない」と言うと、情を叙べることと受け取るむきがある。

「もの」に触れ、「こと」に当たっての、たった一度の(未だ曾って誰も有しない)「感動」を体験することに「自分」が在ることを忘れているのだ。

「われ」「いま」「ここ」に腰を据えることが大事。

俳句では拱手傍観、というのは許されない。

他人を詠うにも、自分とののっぴきならない関係にあって作中に引き据えなくてはならない。

作務僧が何かしている、では句にならない。

炭焼が炭を焼いているだけでは報告だ。

作務僧と語り、炭焼と触れ、その人の思いに感じ入らないでは俳句ではないと心得たい。(拱手傍観=きょうしゅぼうかん。腕組みして観ているだけで何もしないこと。)

誰にもゆずれない自分の人生―そこでは自分が主役だ。それを如実にするのが俳句だ。

俳句は「われ」が主役の時だ。

「われ」という主役をぬきにして、俳句はない。”

それじゃ、短歌では、どうなんだろうかと思っていたら、「余情妖艶」なる言葉を、以下の記事などで知ることに。

【参考記事①】

幽玄が、夜半のかむやしろの十重二十重にみずがきをめぐらせし奥殿にかそかなる灯のともれるをたづぬるごとし。

余情妖艶が、たそがれ八重葎にかくれたる宿にあるかなきかにすめるかたちびとをたづぬるごとし。

そして、和歌の奥義は、秘伝となり、相伝・口伝伝授となっていて、今も埋もれたままであると。

紀貫之が「玄之又玄(※1)」という、歌言葉の奥の奥に秘められた意味があったそうであり、歌のさまを知り、言の心を心得た人には聞こえると、伝えられていたのだとか。

※1:
中日辞典 第3版の解説
玄之又玄
xuán zhī yòu xuán
<成>玄妙不可思議である.まか不思議である.▶《老子》に出てくる言葉.道家の言葉で,形のない微妙なものをさしたが,現在では,言論が難解でわけがわからないことをけなす意味で用いる.

『和漢朗詠集』の撰者である藤原公任は、歌に、

「和漢朗詠集」(講談社学術文庫)川口久雄(全訳注)

「心におかしきところ」

代表歌(小倉百人一首(55番))
「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ」

があると言いい、

『千載和歌集』の撰者である藤原俊成は、

「千載和歌集」(笠間叢書)久保田淳/松野陽一(校注)

「歌言葉の、浮言綺語の戯れに似た戯れに、ことの深き旨も顕れる」

代表歌(小倉百人一首(83番))
「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」

と言っていたそうです。

つまり、歌の「心におかしきところ」と「ことの深き旨」が奥義であると。

そして、藤原定家は、前述のようなことを当然踏まえた上で、歌体は、十種類ほどに分けられるが、すべの歌体に共通するのは、「有心体」であると述べていました。

それは、

「心におかしきところ」

「深き旨」

の有ることを指すのだと言われています。

そして、定家は、「毎月抄」で、秀逸の歌に関して、次のように述べています。

「先ず、心深く、たけ高く巧みに言葉の外まで余れる様にて、姿けだかく、詞なべて続け難きが、しかも安らかに聞こゆるやうにて、おもしろく、幽かなる景趣たち添ひて、面影ただならず、気色は然るから、心も、そぞろかぬ歌にて侍り」

「あきらかならず、おぼめかしてよむ事、これ已達の手がらにて侍るべし」

たいそう、解り難い文であり、秀逸の歌の奥義が、心に直接伝わるように紐解けないと解らないのは、なんだか、幻想的な世界に迷い込んだ観さえあります。

そんな折、非歌詠みの巨人による噛みごたえある歌論集が出版されていたので読んでみたりしていたら、

「ことばの力 うたの心 吉本隆明短歌論集」吉本隆明(著)

【参考記事②】
<書評>『ことばの力 うたの心 吉本隆明短歌論集』吉本隆明 著

https://www.tokyo-np.co.jp/article/201298

以下の記事に出会うに至ったのは、なんだか、セレンディピティ(点をつなぐ力)的に感じられて、可笑しかったですね(^^)

「文學界」(2022年5月号)の「幻想の短歌」は、幻想好きの私にとって、なかなか読ませる内容でしたね(^^)

そのちょうど一年後の「文學界」(2023年5月号)で、12人の“幻想”短篇競作を特集していることに気付いて、正に、思いもよらなかった偶然がもたらす幸運じゃんかって、感動してしまいました(^^)

【特集】12人の“幻想”短篇競作
山尾悠子「メランコリア」
諏訪哲史「昏色(くれいろ)の都」
沼田真佑「茶会」
石沢麻依「マルギット・Kの鏡像」
谷崎由依「天の岩戸ごっこ」
高原英理「ラサンドーハ手稿」
川野芽生「奇病庭園(抄)」
マーサ・ナカムラ「串」
坂崎かおる「母の散歩」
大木芙沙子「うなぎ」
大濱普美子「開花」
吉村萬壱「ニトロシンドローム」

超簡単に感想を述べてみると、

①短歌と幻想は、相性が良さそう。

②俳句と幻想は、馴染み難し。

かなと思われますが、幻想的に感じる事象が、「在ることへの問い」(物事が存在することの不思議)に他ならず、

「〈在る〉ことの不思議」古東哲明(著)

■「生きて在るという事実は、まさに生きている事実ゆえに感じられない。…直接的に存在するものとして、<いま>は瞬間の闇のなかにある。存在の事実性と<いま>私たちがそのなかにある瞬間とは、知覚されない」(E・ブロッホ)

■「<今ここ>はあまりにも間近にある…今まさに生きられている瞬間そのものは朦朧としており、真っ暗な温もりをもち、間近さゆえに形をもたない」(E・ブロッホ)

■「視神経が網膜に入りこむ場所では眼が見えないのと同様に、なんらかの感覚によって今まさに体験しつつあることが知覚されることはない….生きられた瞬間それ自体は、その内容ともども、本質的に依然として眼にはみえない。しかも強く注意が向けられれば向けられるほど、いっそう確実にそうである」(E・ブロッホ)

■「わたしは自分を体験し、所有することはできない。わたしが今タバコを吸い、字を書いているということすら、体験し所有することができない。というより、まさにことのことが、あまりに身近なため、わたしの前に立とうとしないのだ…ではいかなるときひとはほんとうに生き、自分の各瞬間の領野において意識的にみずから居あわせているのか。しかしたとえ居合わせていると強烈に感じられたとしても、流れゆくもの、刻一刻の闇は、絶えずくりかえし滑りおちてしまう。ちょうどそう考えている今の瞬間のように」(E・ブロッホ)

この不思議の「答」を見つけることが出来るのは、実は、人間だけであり、これは、人によって異なるのかなと、そう思います。

さて、堂園昌彦さんが、八十岐(やとまた)の園と題して、幻想短歌アンソロジー80首を編んでいたのを参考にして、前述の物事が存在することの不思議を味わいながら、個人的に、幻想的な短歌じゃないかなと、思った短歌を、アンソロジー80首からのピックアップも含めて、選集にしてみました(^^)

【trafalgar的幻想短歌選集(仮)】
「「大公」の調べ悲しき寒の夜幾千の眼に見おろされつつ」大島史洋

「A god has a “life file”, which is about the collapse of my cool core. (罪色の合わせ鏡のその奥の君と名付けた僕を抱き取る)」中島裕介

「あふ向けに砂に埋もれて目をひらく少女とわれの睡り重なる」小林久美子

「あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇」葛原妙子

「ウェルニッケ野に火を放てそののちの焦土をわれらはるばると征く」松野志保

「エロス・タナトスあやめわかたぬわが夜々にあやしくOのくちひらく刻」大和志保

「きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある」正岡豊

「きみの脚の骨をそろりと抜き取つてうすあおいろに染めたきゆふべ」大津仁昭

「こころなき泉の精となり果ててきよきをのこも影とのみ見む」水原紫苑

「この映はゆい水晶のなかをあるくから大天使ガブリエルさえ風邪の目をして」井辻朱美

「さらさらさらさらさらさらさらさらさらさら牛が粉ミルクになってゆく」穂村弘

「サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ」成瀬有

「トマトの皮を湯剥きしながらチチカカ湖まで行きたしと思うゆうぐれ」生沼義朗

「なにがあつたかわからないけど樅茸もみたけがいぢけて傘をつぼめてゐたよ」石川美南

「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」与謝野晶子

「ねむくなりしひとが乗りこむ真夜中の電車は地下のみづうみへゆく」松平修文

「ノンシャランと夢を貌かおよりふりおとすとおいユラ紀の銀杏のカノン」水原紫苑

「ふる雨にこころ打たるるよろこびを知らぬみずうみ皮膚をもたねば」佐藤弓生

「ぼくらが明日海に出たとしても王宮の喫茶室では黒い紅茶が」正岡豊

「ミクソリディアン音階かけのぼってゆくひとひらの雪きみのゆびさき」金川宏

「みずうみのあおいこおりをふみぬいた獣がしずむ角つのをほこって」小林久美子

「むらさきの指よりこの世の人となりこの世に残す指のむらさき」有賀眞澄

「ゆるやかに死にゆくものと卵もつものありて明るき朝の水槽」横山未来子

「わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる」葛原妙子

「われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる」水原紫苑

「をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪」大塚寅彦

「愛を言う舌はかすかに反りながらいま遠火事へなだれるこころ」服部真里子

「雨の日のさくらはうすき花びらを傘に置き地に置き記憶にも置く」尾崎左永子

「炎天に白薔薇(はくそうび)断つのちふかきしづけさありて刃(やいば)傷めり」水原紫苑

「家ひとつ取り毀されて夕べにはちひさき土地に春雨くだる」小池光

「解剖台のうえのミシンと女郎蜘蛛 出糸腺からあふれだす歌」小林久美子

「改札に君現はるるまでを待つそのまま死後の出会ひのかたち」大津仁昭

「角砂糖角[かど]ほろほろに悲しき日窓硝子唾[つ]もて濡らせしはいつ」山尾悠子

「干涸びた赤い蠍をその髪にかざり土曜日のゆふぐれに来る」松平修文

「泣き濡れているのはわたし高いビル全部沈めて立つのはわたし」花山周子

「胸びれのはつか重たき秋の日や橋の上にて逢はな おとうと」水原紫苑

「月光の夜ふけをつんと雪に立つ蓬(よもぎ)のこゑを聴きし者なし」柏崎驍二

「古き井戸に一匹の鯉棲むと言へど見しことはなしその酷(むご)き緋を」真鍋美恵子

「湖うみのほとり青の光につつまれて神はしだいに遠のきたまふ」加藤克巳

「歳月の中にそよげる向日葵の幾万本に子を忘れゆく」秋山律子

「殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤蜻蛉(あきつ) 行け」水原紫苑

「死ぬるまで愛しあふ鳥死を越えて愛しあふ鳥白深きいづれ」水原紫苑

「死神はてのひらに赤き球置きて人間と人間のあひを走れり」葛原妙子

「持つものも持たざるものもやがてやってくる花粉で汚れた草の姫の靴」フラワーしげる

「床下に水たくはへて鰐を飼ふ少女の相手夜ごと異なる」松平修文

「心臓が透明な男ヴィオロンをひきつつ冬の角を曲がりたり」井辻朱美

「人恋ふる夜明けの部屋にみづみづと春の花木となりし手袋」秋山佐和子

「水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪黴びたり」葛原妙子

「水含み重なりあへる吸殻に涼しき君の初夏の霊」小林久美子

「水漬ける柱朽ちたる桟橋にいのちいとほし月の漣波」宇佐見英治

「睡魔乗る車輪かがやき顕在のわれと昆虫轢かれてゆけり」佐竹彌生

「西洋細密画よりまなこを転じみるものは境もあらぬ大和の桜」小池光

「青き菊の主題をおきて待つわれにかへり来よ海の底まで秋」塚本邦雄

「窓口に恐怖映画の切符さし出す女人の屍蝋の手首」江畑實

「他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆうぐれの水」葛原妙子

「大熊座から降りてきた妖精ニンフひと夜 若草いろにカーディガン手に」石川美南

「茸きのこたちに月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして」石川美南

「中空を皿が割れてすべり落ちてくる白い白い音もなく白い」花山多佳子

「長時間露光のなかに咲きいづるだらりの帯の金糸の刺繍」穂崎円

「剃刀をつつみながらにみづ流れちかくの苑にねむるくちなは」多田零

「天球に薔薇座あるべしかがやきにはつかおくれて匂ひはとどく」水原紫苑

「冬ばれのひかりの中をひとり行くときに甲冑は鳴りひびきたり」玉城徹

「灯の下にとりどりのパン集まりて神の十指のごとく黄昏」楠誓英

「内に飼い慣らす怪物 哄笑とともに若葉を吹くこの街で」松野志保

「白き馬うまに非ざるかなしみに卵生の皇子みこは行きてかへらぬ」水原紫苑

「白昼の星のひかりにのみ開く扉(ドア)、天使住居街に夏こもるかな」浜田到

「白鳥はおのれが白き墓ならむ空ゆく群れに生者死者あり」水原紫苑

「美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より」水原紫苑

「美しき球の透視をゆめむべくあぢさゐの花あまた咲きたり」葛原妙子

「百年の受容ののちの夕微光ここ出でて春の橋わたるべし」谷岡亜紀

「風鈴を鳴らしつづける風鈴屋世界が海におおわれるまで」佐藤弓生

「方舟はこぶねのとほき世黒き蝙蝠傘かうもりの一人見つらむ雨の地球を」水原紫苑

「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり」葛原妙子

「夢の汗よりもどればきみは陽のにおう朝をさしだすようにスープを」加藤英彦

「迷ひたる賢治に道を教へきと大法螺吹きの万年茸は」石川美南

「夜と昼のあはひ杳かに照らしつつひるがほの上に月はありたり」河野裕子

「夜の更くるお茶の水橋の下びには人面(じんめん)なして葛の葉が吹く」河野愛子

「夜空の果ての果ての天体(ほし)から来しといふ少女の陰(ほと)は草の香ぞする」松平修文

「宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら」水原紫苑

「夕闇に溶けゆくネーブル・オレンジと蠅をみていたあのまなざしは」穂村弘

「予言者の闇には時の星座あれ蒼き髪より蝶を発たしむ」江田浩司

「羅(うすもの)の女ささめくカジノの夜 “oui, oui,, “mais, non”,, 恋も賭けるの」松平盟子

「流れくる水泡のごとき虚(こ)のごときいかに花降るわれのみなかみ」今野寿美

「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径」木下利玄

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【雑考】幻想文学から幻想的な短歌への誘い(その1)
https://note.com/bax36410/n/n466753a43630

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