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【宿題帳(自習用)】「理科」をやり直してみる

大人のおさらい5科目目は理科。

日常生活にある楽しみが、自然の奥深い姿を語りかけてくることがあります。

自然とは何か、自然を如何に見つめるか、から考え直す必要があります。

まず、西欧では自然はNatureですが、これは森羅万象(もの、現象、性質)を表しています。

「Oxford Dictionary」によると、"Nature: the phenomena of the physical world collectively, including plants, animals, and the landscape, as opposed to humans or human creations."となっており、自然とは、人間と相対するもので、征服すべき対象としてとらえられています。

この自然観に基づいて、産業革命が起こり、今日の西欧的科学技術文明が華開いた事実があります。

【参考記事①】

その結果として環境破壊が起こり、公害や地球温暖化、資源の枯渇などの人類の存亡に関わる重大な問題が生じて来ました。

ここに至って西欧では、新たな価値観が必要とされました。

一方、東洋では古代から西欧とは全く異なった自然観を持っていました。

もともと、自然という言葉は、悠然、毅然などといった言葉と同様、状態を表す言葉でした。

この言葉が西欧で言うNatureの訳語となったのですが、その意味は、西欧とは大きく異なっていました。

すなわち、東洋では古来、人間は自然の一部であり、自然と人間とが一体となった自然観を持っていました。

自然は自己保存的であり、自律的、自己形成的であり、この自然観の基で経験的な技術や科学が進歩してきました。

ところが、この時点にいたって、日本では西欧の科学技術をそのまま取り入れたために、現在では西欧と同じ問題を生じてきています。

ここで、近世の日本文明と西欧文明の違いを整理しておくと、

①西欧文明とは、個人と神との契約で成り立つため、自然と対立して、自然を征服する文明であった。

②日本文明とは、自然を八百万の神様とする自然と一体化した共同体から成り立つ文明であった。

であり、また、西欧文明は、以下の様な世界であり、

①個人が自然を概念として把握し、自然とは断絶していると認識した世界。

②言葉は、始めに言葉ありきであり、人と神との契約のためにある世界。

そして、日本文明は、以下の様な世界でした。

①自然と人間は一体であり、人間は、自然を映し出す場である。

②言葉は、人と人とが感動や考えを共有するためにある。

つまり、西欧文明は、自然と人間が分離することを通して人間が自我を獲得できたことにより、西欧の近代科学(自然科学・社会科学)を手に入れることができたのです。

その結果、西欧文明では、言葉は、神との契約のためにあり、日本文明では、言葉は、人と人とが感動や考えを共有するためにありました。

主体(西洋文明では個人。日本文明では人。)と客体(自然)が分離していた西欧文明は、形式知(※1)の世界であるのに対し、主体と客体が融合していた日本文明においては、実践知(※2)の世界でした。

※1:「形式知」とは、文章や図表などで表された知識のことを指す。
論理的に示されており、客観的に捉えられることが特徴だ。
明確に共有できる知識として、「明示的知識」とも呼ばれる。

※2:「実践知」とは 実践の場で状況を見て的確な判断をする能力のことである。
経験によって得られる知識のため、マニュアル等で表現しづらい点が「形式知」との違いである。
なお、「実践知」とはギリシャ哲学の「フロネシス、プロネーシス」と名付けられた知で、社会的な価値に向かって、現場において適切に判断する力。

ここで押さえておきたいのは、近代科学の学問は、形式知の世界であるということです。

現在の知的閉塞状況は、形式知の学問が限界にきているということなのかもしれません。

【参考記事②】

今、まさに世界で必要とされているのは、自然と人間との共生を基盤とした自然観であり、この自然観は、古来、東洋において培われてきたものです。

このような自然観をもとに科学や文化を考えるに当たっては、成熟した社会でなければ出来ないことであり、東洋の中でも、今現在、取り組めるのは、日本でしかないのかもしれないと、まだ、期待しています。

ここで、割り切った考え方をしてみると、人間が手を入れて、人間のために作り上げた自然であれば、人間の用が済んだのなら、元に戻ればよいだけの話かもしれません。

実用性で作り上げたのだから、用が済んだ後も維持しなければならない理由はないし、自分たちの都合のいいように作り替える。

生態系とは、そもそも、そういうものかもしれないと推測されるのは、ミミズが土を改良し、キツツキが木に穴を開けた、この行為を自然ではないと言うのは詭弁だろうか?

そもそも、木が無ければ土などできなかったし、岩石だけが本来の自然だったかもしれない。

こんな主張に耳を傾ける者などいないかもしれませんが、人間が自然を変えるのはいけなくて、動物なら自然の営みだというのはなぜだろうか。

渡り鳥がいなければ持ち込まれなかった植物のことは不問なのに、コンテナに着いてきた種子は非難される事実。

鳥たちの糞が石灰を作り、微生物の死骸が石油を作ったのに、人間が作り出す廃棄物は非難されるのは、例えば、プラスチック製品の様にリサイクル率が低い(コストと劣化の問題・同じ材質を集めないといけない・複合樹脂の問題・汚れたプラスチック・添加剤の問題)事などが上げられます。

自分たちの都合のいいように、自然を作り替える。

それは、生きとし生ける物みな同じなのかも知れません。

人間は、自分たちの生活に都合のいいように加えて、自分たちの主張に都合のいいように自然を作り替える。

そこまで進化したのかも知れません。

また、生態系とはまさしく系であるから、相互作用があって当たり前であり、自然に作用しない人間の営みなどありえません。

人間が作り替えた不自然な自然も、人間がそこにいる限りは生態系として成り立っているのではないのか?といった視点も必要に感じます。

里山が日本の豊かな自然だ、だから残そう。

いや原生林こそ本当の自然だ、だから戻そう。

どちらの主張も、自然側からの視点では、どっちもどっちにしか聞こえないのかもしれませんね。

私たちに必要なのは、自然の立場から自分のとる行動が、次世代に、どんな形で影響を及ぼすだろうかと絶えず問いかけ続けることです。

人間が他の生物と違う唯一の点は、時間軸で考えることだと考えられます。

過去を考え、未来を考える。

考える主体たる自分が存在しないはずの時間域のことを考える。

人間はたえず、自然との関わり方を考え続けて生きて行かなくてはならない。

間違っていることがあるけれど、絶えず修正できるとこも人間ならではでないかと思います。

また、例えば、料理を楽しむには、まず食べてみることですよね。

なのに今の理科(家庭科)教育は、料理を食べさせないで、材料の内容や下ごしらえの仕方、栄養の種類や量ばかりを教えているのではないか?

料理とは、私たちを包む自然のこと。

空を見上げれば太陽が照り、雲が流れ、星が輝く。

大地や海も、とどまるところを知らない。

なんと魅力にあふれていることか。

なのに学校では、物理、化学、生物、地学と分けられ、専門用語や方程式の詰め込みが理科嫌いを生んでいる様に感じます。

自然の不思議さや奥深い楽しさを味わうことなく過ごしている人が、とても多いのではとも感じます。

「なぜ」という疑問の種から「なるほど」という答えの花が咲き、その中の新しい種からまた別の花が咲く。

そんなリズムで物事を捉えていきたいですね(^^)

島々を訪ね、土地の生物や住民の生活にも触れたビーグル号航海記のダーウィンや、化学物質による環境汚染を警告した沈黙の春のレイチェル・カーソンのような科学者が、日本には少ないと感じます。

インターネットで多量の知識が得られる時代だけど、ネットの情報は断片的です。

ものごとを総合的に考えるには、やはり、書物が一番であると、そう思います。

理科系の一冊の本を、一か月、あるいは、一年かけてじっくりと読み込むのもいいと思います。

【参考図書】
「シュワルツ博士の「化学はこんなに面白い」―知っているようで知らない日常の化学のはなし」ジョー シュワルツ(著)栗木さつき(訳)

「植物の神秘生活―緑の賢者たちの新しい博物誌」ピーター・トムプキンズ/クリストファー・バード(著)新井昭広(訳)

「個体発生と系統発生―進化の観念史と発生学の最前線」スティーヴン J.グールド(著)仁木帝都/渡辺政隆(訳)

科学は、役に立つばかりでなく、自然を楽しむ道具でもあります。

詩人は、言葉で自然の素晴らしさを表現しますが、文学的才能のない私たちでも、学ぶべきことを間違えなければ、学ぶ力を無くさなければ、自然の驚異に触れられるのだと、そう考えています。

科学を適切に使えれば(^^)

【参考記事③】

「学びというのは、学んだ後に学ぶ前とは別人になっていることである。

学び始める前には自分が何を学ぶことになるのか分かっていなかったことが、学び終えたあとに回顧的に「わかるようになる」というのが学びの力動性、開放性、豊饒性なのである。

だから、「いま私たちが学ぶべきこと」があるとしたら、それは世の中には「学びというものがある」という原事実それだけなのである。」

「「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。

繰り返します。

第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。

第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。

第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。」

【おまけ】

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