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#071_240430 訪看管理者がいらっしゃった…;デイリー通信簿

【朝→昼→夜】4→2→8
【SRED】→5(下記のような出来事で傷つき、レッスン前にケーキ2個)
【総合】→7
【JJ】→10(レッスンの中で目を疑いたくなるようなことを彼がした→別途、書くつもり…)

異動により訪看担当者変更に伴い、管理者がいらっしゃった。というのは大義名分。サービス内容を「今までのように行えない」との話をしに来たというのが本当のところ。

フードバンクの受取に今までは行っていただき、ありがたかったけれど、今後はしないとの由。フードバンクの利用を含め、生活困窮に関する相談は保健師、地域支え合いを利用すればよいとのことだったが、要するに「たらい回し」だ。この事業所、管理者は「責任逃れ」をしたいだけ。病気、障害を抱えて生きる私にこれ以上の負担を強いて追い詰めるとは…いかに業務を減らして「働かないで収入を得ようとしているか」という魂胆が丸見えだった。

健康な人でさえ、いかに働かず生きていこうかにエネルギーを投じている。だから私と同じように病気で働けないことで悩んでいるすべての人に伝えたい。「働かない自分は情けない」と自分を責める必要はどこにもない。世間を見渡すと、一見、安定した職業に就いているようで職場で働いていない人ならたーくさんいる。

今回はっきりさせた訪問看護にできること。
・衣食住の相談(この文言が実に危うい…衣食住の食の相談にのるのにフードバンクの受け取りはしないという言動不一致は私を混乱させる)
・服薬管理
・病状のヒアリング(主治医に話せばよい) etc.
これらはすべて居宅での対応に限られるとの説明だった。

「フードバンクの利用が継続できないのであれば訪問看護は要らない。」と主治医に相談したことがあったが、また同じ状況になってしまった。

苦境にあって、念の為、最悪のシナリオを考えておく。最初に断っておくと最悪のシナリオを避けるため、想定しておくだけ。食料が得られなくなるとシンプルに「死」「犯罪」への道へ向かう。そこへ向かってはならない、という意識で選択していく。

2年前より以前に訪問看護を利用していたことがあったが、その時も訪問看護を利用する目的がよくわからなかった。毎週、2名の看護師が来て、1時間程度、おしゃべりをして帰る。時々、我が家でエスプレッソやカプチーノを飲み、暑い季節はアイスクリームを用意した。今は飲食が禁止されているが、当時が緩かった。同じ事業所で別の担当者がフードバンクの利用を促してくれ、今まで私の生活全般をがっつり支えてくれていた。それは本当にありがたかった。助かっていた。

新任の担当者は「前任者と同様のサポートをする」と言っていた先週とは打って変わって「フードバンクの利用は個人でする、訪看は一切関知しない」まさに手のひら返しだ。

新任の担当者を疑っていたわけではないが、私の味方には到底なり得ないだろうな、という予感はあった。いざとなれば長いものに巻かれろで、利用者の私より、事業所&主治医側へつくだろうな、と思っていた。私の予感は的中した。

さて、今後、訪問看護をどうしようかな?居宅に押しかけて、ここにきて1時間おしゃべりするだけのサービスであれば、訪問看護の利用そのものが本当に必要かどうかわからなくなる。話し相手になってくれる友だちに不自由しているわけではない。

ここで、念の為、前任の訪問看護担当者への感謝の気持ちを書いておく。彼女が支えてくれたことは単に担当者としてだけでなく、私に「幸せになってほしい」と思ってしてくれていたんだと痛感。今までの優しさ、思いやりに感謝。こんなによくされた記憶を忘れることなく、人生を進めたい。

それでも障害を抱えて生きるということはかくも難しい…

訪問看護を利用することにより、私を含め、病気、障害を抱えて生きる人が助かるのであればいいけれど、今回のように利用を継続しても「助からない」そう思った時、訪問看護みたいな制度が機能不全であればいっそのこと、訪問看護という制度を「命を守る制度」として根底から改革するか、もしくは今回の管理者のように利用者に何かとケチをつけて業務を減らし、なるべく仕事をしないで収入を得ようとしている職員の温床になるようであれば、制度そのものは廃止、という議論も今後浮上していくだろう…



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