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かいぶつのうまれたひ #20

  目次

 ――いかん。
 胸を走る、重い痺れ。触れてみると、赤くて熱い液体がべっとりと掌を汚した。
 横一文字に、掻っ捌かれている。
 すぐに後ろを向き、敵を視界に収めた。
「さて……」
 タグトゥマダークの踵は、アウトボクサーのようにゆるやかなステップを踏み始める。その手には、バス停などない。完全に手ぶらだ。
 バス停もなしにどうやってこの傷をつけたのか。どうやって背後に回ったのか。
 いや――
 そんなことはどうでもよい。
 今の攻撃に、殺気どころか攻撃の意志すら・・・・・・・感じ取れなかったのは、何故か。
 篤は、殺気を読める。意図的にせっぷくと隣り合わせの日常を送っていれば、死の匂いに対する予知能力とでもいうべき、特殊な嗅覚が発達してゆくのだ。だからこそ、下駄箱で藍浬を追い詰めていた時には、どこからともなく発せられてきた殺気を読んでいち早く回避行動にうつることができた。
 にも関わらず。
 今の一撃には、またく何の意志も感情もなかった。……読めなかったのだ。
「今の一瞬で、キミの脳裏にはいくつかの疑問が芽生えたかと思うニャン」
「むぅっ」
 タグトゥマダークは悠々としたフットワークで間合いを詰め始める。
 まっすぐではなく、横に回りこむような動きだ。時折自身も回転しながら、ゆったりとした動作で――その実不気味なまでに素早く――篤の周りを巡る。まるで、さまざまな角度から隙を探すように。
「普通は何も言わずに瞬殺するトコなんだけど……キミは何だかボクと似た匂いがするニャ。もうちょっと遊びたくなったんだニャン」
 円を描くように、篤の周囲を舞い進む。
「悠長だぴょん。それは油断と余裕を取り違えて破滅する者の言説だぴょん」
「ハハ、そうかもしれないニャン。でも諏訪原くん、キミを見ていると、それもいいかななんて考えてしまうんだニャン」
 子供のように、無垢な笑みを浮かべて。
「まるではじめて会った気がしないニャン。鏡を見ているような気分だニャン。最高に最悪な気分だニャン」
 それはいつしか、冷たい嘲笑と化す。
「きっと僕たちは、生まれた時から殺しあう運命だったんだニャン」
 ぎょるっ、と音を立てて、眼が見開かれた。
 ……その瞳孔は、縦に鋭く裂けていた。
 猫の妖眼。
 捕食者の眼差し。
「さあ、いい加減反撃のアイディアは閃いたかニャン? 僕をガッカリさせないでほしいニャン」
 身を低くして、彼は床を蹴る。地を這うような低姿勢で突進する。
 轟音は立たない。コンクリートが砕けもしない。
 だがそれは、内力操作系バス停使いの驚異的脚力が、損耗なく推進力に変換されているということだけを意味する。
 その証拠に、瞬きほどの間隙もなく、間合いがゼロとなる。
「むっ――」
 来るべき攻撃に備え、篤は『姫川病院前』を構える。
 構えようとするその腕が――唐突に血を吹き上げる。
「むむっ!?」
 ――まただ!
 殺意なき、斬撃。
 読めない太刀筋。
 明らかにおかしい。攻撃をする瞬間にすら何の殺意も漏出しないなど、この男が人形でもない限りありえない。
「ははッ! 混乱してるニャン!?」
 ――ッ!?
 その瞬間、まったく唐突に、殺意が迸った。篤の意識に、はっきりと加害の意志が感じ取られた。
 滅紫の斬閃が迸る。
 火花が咲き散る。
 反射的に掲げた『姫川病院前』が、一撃を打ち払ったのだ。
 防御、成功。
 しかしギリギリだ。今の一撃は殺意の漏洩があったおかげで先んじて対応できたが、かつて闘ったどの相手よりも速く、鋭く、精確な一撃だった。もう一度同じように防げと言われても、確実にできるとはとても思えない。
 だが、そんなことよりも――
 タグトゥマダークは軽やかに宙転し、間合いを取る。薄笑いが、消えていない。
 バス停も、持っていない。
 ――どういう、ことだ……?

 ●

「むぎゅ!」
「あうぅ?」
 特に速い動きだったわけではない。
 特に強い力だったわけではない。
 だけど、攻牙と射美は、その腕を振り払うことができなかった。
 ひんやりとした感触が、二人を柔らかく包み込んでいる。
「き、霧沙希センパイ……」
 射美が狼狽した声を上げる。二の腕と鎖骨に挟まれて、借りてきた猫のように縮こまっている。
「むぎゅっ! むぎゅっ!」
 攻牙に至っては神話的弾力の側面に顔を押し付けられて呼吸困難に陥っていた。
「あのね、二人とも。聞いて?」
 藍浬はゆっくり寝物語を語るように、言葉を紡いだ。
「二人は、諏訪原くんのことは好き?」
 攻牙がもがくのをやめた。
 射美はバツが悪そうに眉尻を下げる。
「そ、それは……」
「むぎゅう……」
「わたしは、好き」
 大切にしまっていた宝物を取り出すように、藍浬は言った。
 穏やかに、口元が綻ぶ。
「だから、これはお願い。ケンカはやめて、諏訪原くんを助けるのに手を貸して、くれない?」
「ううぅ……」
 射美は口をにゃむにゃむと波線の形にし、悩んでいるようだった。
「タグっちを裏切るわけには……」
「ふふ、鋼原さん、そうじゃないわ。誰も怪我をしないような落としどころを決めましょうってこと」
 藍浬は破顔して、射美に頬擦りをした。
「うにぃ~」
 眼を細めながら、射美は潤んだ瞳で藍浬を見た。
「……なまえ」
「うん?」
「なまえ、射美は射美って呼んでほしいでごわす」
「いいわ……射美ちゃん。手を貸してくれる?」
「んにゅふぅ~、よろこんで♪」
「むぎゅう!」
 そんな簡単でいいのかよ、と攻牙は思った。

【続く】

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