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夜天を引き裂く #15

  目次

 ……絶無にとって痛恨だったのは、諸々の証拠を集めてクズ教師とカス女を社会的に抹殺するのに一週間もかかってしまったことだ。
 一週間!
 一週間も奴らは「示談がうまくいって賠償金までせしめられそうだ」とわが世の春を謳歌していたのだ。
 その情景を想像するだけで腸が煮えくり返りそうになる。
 顔に、雪が触れた。
 闇の曇天から、音もなく白い幻想が降り積もる。
 普段なら、目を細めてひとしきり見入る光景だったが、今の絶無にはうっとおしいだけだった。
 何故怒りで溶けないのか不思議なほどだった。
 歩みを止めず、街路を進んでゆく。この怒りをどこにぶつければいいのかがわからなかった。
 奴は。
 志垣は。
 最期まで絶無に一言も助けを求めなかった。
 ――つまり、なんだ? あれか? 死の瞬間、僕はお前を陥れたクズカスどもと同列に扱われていたのか?
 目も眩むほどの怒りが、絶無の胸を灼いた。なんという侮辱、なんという誤解か。いますぐ奴の胸ぐらをつかんで百万の罵倒と共にその小癪に障る勘違いを糺してやりたかった。
 だが――その機会は永遠に失われた。志垣泰然は、この世に味方は一人もいないと考えながら死んだ。
 一体、それは、何なんだ。
 ふと、前方にひとつの人影が佇んでいた。
 見覚えのある姿。永遠の憧憬と、畏怖の対象たる男の姿。
「やあ、お疲れ」
「父さん……」
 もうすぐ四十になろうとは思えないほど若々しい顔を微笑ませ、絶無の父――久我くが涯無がいむは息子を待っていた。
「ちゃんと止めは刺したかい?」
「……教師の方は、確実に。しかし女は未成年ですからね。どうにも……」
 このことは話していないはずだが、父のことだからどういう経路から何を知っていたとしても不思議ではなかった。
「ま、そうだろうね。心配しなくていいよ。彼女がこの国で、少なくとも経済的な幸福を得る恐れはもうないから」
 にこやかに、言う。久我涯無にはそういうことが容易くできるだけの力がある。
「すみません。あなたのお手を煩わせることになってしまった。それだけは、避けたかった」
「自慢の息子の復讐だ。そう言わず噛ませてくれよ絶無くん。あぁ、そうそう、志垣くんの家だけどね、さっき口座に三億ばかり振り込んどいたから」
「お、お金の問題では……」
「お金の問題さ。こういうことはね」
 絶無は、うつむく。
「……一体、何なのでしょうね。もうわからなくなってしまった。これで終わりなのだとしたら、志垣泰然は一体、何のために生まれ、何のために生きていたのでしょう。何一つ成すことも報われることもなく、ただ疎まれ、蔑まれ、挙句に濡れ衣を着せられて死んだ。そしてこのまま忘れ去られてゆく。それを、認めるべきなのでしょうか。生きるということと死ぬということに意味を求めるのは、甘えなのでしょうか。僕は、何を成すべきで、何を成さないべきだったのでしょうか」
「絶無くん」
 ぽん、と頭に手が乗せられた。
「僕は君を育てるにあたって、俗世から隔離して徹底的な英才教育を施すこともできた。だけどあえてそれをせず、普通の子供たちと同じように欠陥だらけの教育機関にゆだねたのはなぜだと思う?」
「座学では、わからないことがあるから、ですか?」
「間違いじゃないけど、不十分だね。正解は、弱者というものがどういう存在であるか、肌で感じてほしかったからだ」
「……っ」
「いいかい絶無くん。弱い人間は最低だ。弱い人間は死んだ方がいい」
 少し哀しげな顔で、父は言った。
「馬鹿な。それでは社会が成り立たない」
「その通り。だけどね、社会的な要請と、物事の真理は、全く別の問題だ。本来生きる価値など微塵もない弱者に、ありとあらゆるメディアを用いて、『あなたには価値がある』『弱さこそが人間に必要な要素だ』『ありのままのあなたで良い』などのウソを吹き込んでおだて上げ、搾取しやすい状況を作ること。それこそが支配者に必要な資質なんだよ。弱者を同じ人間などと思わない方がいい。陳腐な表現で済まないが、彼らはね、豚なんだよ。どうしようもなく」
 その言葉に悪意も皮肉も嘲弄も込められておらず、残酷なまでに淡々としていた。
「世に『名君』や『暴君』なんてものは存在しなかった。居たのはただ、搾取の構造を隠すのが上手い支配者と、下手な支配者だけだ。絶無くん。君の本当の父親はね、正直者でありすぎた。隠すのが下手というか、隠す気が最初からないような男だった。包み隠さず誠実に話せば、きっとわかってもらえる――なんて勘違いをしていたんだ。だから弱者様のご機嫌を損ね、寄って集って取り殺された」
「う……ぅ……」
「何を成すべきだったのか――だって? 君はそれにもう気づいているんじゃないのかな?」
 拳を握りしめ、身震いした。
 怒りは鎮められ、ただ悲しい寒さが身に染みた。生きるということの悲しみが、雪明りの中で小さく凝っていた。
 やがて、空っぽの城壁の奥で、何かが立ち現れ始めた。それはねじくれ歪み、高く高く聳え立った。
「それでも……それでも僕は……目に映る世界が、豚のひしめくような場所であってほしくない。あなたはそんな世界でも何の痛痒も感じず、すべてを許容し、利用し、支配できるかもしれないけれど、僕はそんな世界、耐えられない。そんな器用には、生きられない」
 だからきっと、これは絶無の青さであり、甘さである。
「僕は、正直に生きたいんです。豚を豚のまま認めるなんて、絶対に嫌だ。それだけはどうしても肯じえない。彼らには、搾取されるだけが存在意義の生物ではなく、人であってほしいんです」
 久我涯無は、目を細めてこちらを見ていた。
 やがて大きな手が伸びてきて、絶無を抱き寄せた。
「絶無くん。それは茨の道だ。豚は豚であることに満足しているんだよ。自分の頭でものを考えるのが大嫌いだし、自分と異なる価値観も大嫌いなんだ。だから檻から解き放たれようと、誰一人君に感謝なんてしないだろうね。それどころか君のことが疎ましくて仕方がなくなる。必ず排除しにかかる」
「いいんです。それならそれで。怒りを糧に鎖を引きちぎるなら、結構なことです。僕はせいぜい憎たらしい敵役を演じますよ。もう決めました。僕は二度と弱者の弱さを尊重しません。弱者の誇りを尊重しません。そして弱者の生命と可能性を守ります」
 そうとも。
 志垣泰然の生と死が、無意味であったなどとは認めない。
 僕がこれから、意味を与えるのだ。
 弱者。弱者よ。感情論と言う名の暴威によって世界を抑圧する最強のマジョリティよ。

 ――僕はお前たちに反逆する。


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