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光にフォーカス

私は建築を勉強していくうちに「建築を勉強していてはダメだな」と思うようになりました。



「何言ってんだ?」って感じですよね。もう少しお付き合い下さい。



世間の人は「建築」と聞くと「The理系」というイメージを持たれるのではないでしょうか。確かに、建築が出来上がる過程には緻密な計算や図面が必要となり、理系であることには異論はないのですが、そのようなシステマチックな要素だけでは建築の豊かさを築くことはできません。

建築は人間の温度を帯びるべきであり、AIなんかには任せられず、人間が設計することに意味があるのです。


冷めた見方をしてしまえば、最終的に出来上がる建築物そのものは、質量を持った非常に具体的で実体あるものに過ぎません。それが家なのか店なのかビルなのかというジャンルに収まってしまうし、時間が経てば劣化もし、いつか取り壊されます。形あるものは壊れる、まさに諸行無常です。科学や宗教のような、世界を変えてしまうほどの力は、建築にはありません。


ただ、設計の工夫次第で建築を訪れた人に何かしらの豊かさを与えることはできます。そして、そんな(物質的ではなく精神的に)リッチな空間を設計するには建築だけを勉強していては足りず、建築以外の教養も必須になるということです。



大学に来られたある建築家の先生が話していたことがとても印象的でした。


「僕は人生においてなにか信じられるものが欲しかった。僕はたまたま建築だったけど、別に映画でも小説でもなんでもよかった。どんな分野だろうが突き詰めれば全部一緒だと思うよ。」


なるほど、と思いました。ある分野を極めていけばいつかある境地に達し、真理に辿り着く。「悟りを開く」的なことでしょうか。芸人として成功したビート武が映画監督としても成功したのは、お笑いを通じて「人間とは何か」を知ってしまったからではないでしょうか。


岡本太郎の「本職?人間だ」という言葉がありますが、ここからも悟りが伺えます。作品を作ってる最中は色々な分野の思想や感情がアトリエを飛び回り、まさに人間を表現していると言えるでしょうが、最終的には作品という物質に収まってしまう。岡本太郎の作り上げる芸術作品も建築と同じく実体あるものに過ぎません。


つまり、「本職?人間だ」の言葉からもわかるように、岡本太郎も「表現することに意味があるのであって、表現手段はなんだっていい。」と言いたいのではないでしょうか。


「天才はそれでいいけど、凡人はそんなこと考えずに言われたことやってろよ」という反論もあるかもしれませんが、少しお待ちください。


引用ばかりで恐縮ですが、、、
ブルーハーツ(現クロマニヨンズ)の甲本ヒロトさんがある番組で「みんな見えてる世界は同じ。でも人それぞれピントが合っているところが違う。僕は中学生の時にたまたまロックにピントが合った。」と仰っていました。


天才が発する「見えてる世界は一緒」という言葉はとても衝撃的でした。私のような凡人は天才を目にするたびに、「天才の目に世界はどう映るのだろう」と気になってしまいがちです。


「同じ人間だから天才も凡人も見えてる世界は一緒だよ」と凡人の私としては勇気のもらえる言葉でした。凡人でも何かにピントを合わせて、そこにエネルギーを注げば、極めることができるかもしれません。


それでは、今の私が何にピントが合っているかと言うと、です。


建築と光は密接に結びついており、私は光を勉強していくうちにその魅力に惹かれるようになりました。美しい光について勉強した後は、街を歩くと自然と光に目がフォーカスするようになります。陽の光や月の光といった神秘的な光に始まり、人工光による活気ある光など、光の知識を得た後に見る世界は飽きが来ません。


写真や映画は光を見事に捉えた媒体です。私は写真を撮るのも映画を見るのも好きなので、それも勉強になります。そこから派生して、この映画の光はなぜ美しいのだろうか。なんで感動できるんだろう。人間とは何か。生きるって何か。暮らすって何か。と考え始めます。


こうして、建築を勉強していない時でも、建築に活きる教養を身につけることができるのです。





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