私の3.11〜前編〜

こんにちは。今日で東日本大震災が発生してから丸13年となりました。

そういえばnoteには、発生した当時の行動など、書いていなかったので、覚えているうちにいま書いておいて今後の糧にしておこうと思い立ちました。あくまで主観で備忘録的なことになりますが、しばらくお付き合いください。

2011.3.11。私は東京・御茶ノ水にいました。
大学3年生から4年生に向かう春休み期間でした。就職活動真っ只中。その日は大学が所有している東京のオフィスで、午前は他大学とのキャリアに関する交流、夕方からOBOG会が開催される予定でした。

午前中の交流会を終えて、オフィスの方と教授と3人で昼食を取ったあと、OBOG会まで時間があったので、1人で当時近くにあった日本サッカーミュージアムに見学しに行きました。教授は新宿で買い物に行くとの事で、一旦解散しました。

1時間ほどミュージアムで過ごしたあとオフィスに戻り、OBOG会の準備をしようとしていた所に、地震が発生しました。

これはただ事じゃないなと分かる揺れ方で、10分くらい経って、ようやく揺れが収まったところで、立ち上がりヘルメットを被って外に避難しました。

オフィス街なので、私たちと同じようにヘルメットを被った人たちが、多数外に出ていました。新宿に向かった教授には運良く連絡が取れて、バス・タクシーに乗りたいけども、最悪歩いてオフィスに戻ると一報があり、かなり安心したのを覚えています。このまま立ち止まっていても不安になるからと、教授が戻ってくるであろう時間まで、オフィスの方と近くを散歩することにしました。

ビルがひび割れていたり、パイプの繋ぎ目から水がブワーと出ていたり、その時点で非現実だったのですが、御茶ノ水だから病院が多くて安心だねーなどと呑気な事を言っていたら、大きめの余震が。

ビルが揺れ、一斉に逃げるように道路の中央分離帯に駆け寄る人々。パニックでした。

そして、それまでテレビを見てなかったけども、通り道にあった薬局で、地震が発生してから初めてテレビを見させてもらい、そこで津波を見て、呆然としていました。

いま東京よりももっと大変な方々がいるね…と話しながら、オフィスに戻りました。

当然OBOG会は中止。電車も動かないので、実家に帰宅することもできず、オフィスで1泊する事になりました。

もう夜になろうとしていた頃、程なくして教授が帰ってきました。道も渋滞していたので、バスに乗ることも出来ずに徒歩で3時間。さすがに疲れた様子でした。

OBOG会のために、お茶やジュース、軽食を予め準備していたので、運良くそれで腹を満たすことも出来ました。

その後テレビを見ながら、東北に思いを寄せ、でも外ではサイレンが鳴り響き、時より余震で揺れるオフィス。そのまま寝れる訳もなく、朝を迎えました。その時テレビで流れてた、宮城県気仙沼市の様子が特に自分にとってショックで、特に自分に縁のある土地ではなかったのですが、津波と火災の様子が衝撃的でした。

朝になり、始発で電車も各駅停車で動き始めたので、実家のある小田原に向かいました。
ただ普通なら急行で2時間ほどで到着するのが、各駅停車と乗り換えで5時間ほどかかりました。

僕は本当に運が良かった。近くに人がいて、泊まれる場所があって、帰ることも出来て。

実家に帰って親に安心させることが出来たのは良かったのですが、2〜3日後に実家で震度5強の地震に遭ったので、果たして帰ったのが正解だったのか今でも分かりません。(ちなみに実家はこの地震での影響なく、幸いにも無事でした。)

といった所でしょうか。
すぐにボランティアとか支援とか出来ればよかったけど、就職活動や大学生活で、そこまで出来る余裕がなかった事が、一つ後悔している点です。ただ、この後悔で社会人になった後、とある行動に出ることになります。

今日はここまで。続きは近々に書きます。

ここまで読んでいただきありがとうございました。



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