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『ブッダ』と『阿・吽』から見る仏教の世界

こんにちは!せのおです。

今回の記事では、「仏教」に関連した漫画、
手塚治虫先生の『ブッダ』と、おかざき真理の先生の『阿・吽』を読み比べて、
私が感じた共通点をご紹介したいと思います!

■はじめに

まず、なぜこんなことをしようと思ったのかについて、説明させてください!(笑)

『阿・吽』は、まさに私が現在とってもハマっている漫画の1つです!

2020年3月に11巻が発売され、遂に最澄と空海が…!!というところで(笑)、物語が大盛り上がりしている『阿・吽』ですが、
作中では、物語が始まる重要な1巻5巻、物語のターニングポイントになった10巻で、共通して登場するフレーズがあります。

犀(さい)の角のようにただ独り歩め。

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本作では、主人公である最澄と空海を、お互いこの上なく最良のライバルであり理解者として描いていますが、2人はそれまで誰にも共感されず、孤独に我が道を突き進んでいました。
このフレーズは、そんな2人の心情を的確に表現しており、おかざき先生の素晴らしい演出とともに、読者も非常に物語に引き込まれるシーンです。

『阿・吽』を読んだことのある方は、このシーンがいかに物語が最高潮に達しているか、ご理解していただけることでしょう…!!

10巻では、1話の中に15回もこのフレーズが登場し、私も読んでいて身震いするほどの迫力でした!!

私はもうこのシーンが脳裏から離れず、このフレーズについて調べてみたところ、
超・超・超要約すれば、ブッダの言葉であることが分かりました。

私はこのおかざき先生が描く、『阿・吽』の世界をより知り尽くしたい!と思いましたが、
いかんせん、「ブッダ」の「ブ」の字も分からず、手のつけようがありませんでした…。

しかし、「ブッダ」となれば、我々には最強の教科書があります

そう・・・手塚治虫先生の漫画、『ブッダ』ですね!!(…単細胞かな?)

そして、読み比べていく中で、2作は違う題材を描きながらも、「仏教」の思想を物語の根本に置いているためか、双方の作品に通ずるものが見えてきました

個人的にそれが面白い発見だったので、今回noteにまとめようと思いました!

もちろん、両作は独立した作品であり、「共通点がある」と思うこと自体、読者のエゴであるということをご認識いただいたうえで、以下読み進めていただきたいなと思います。


■『ブッダ』と『阿・吽』の時系列

まず、2作品の概要とともに、両作の時系列についてまとめます。

手塚治虫 『ブッダ』

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1972/09-1983/12 「希望の友」-「少年ワールド」-「コミックトム」(潮出版社) 連載
『火の鳥』と同じ、人間の生と死をテーマとした長編作品です。
主人公・シッダルタの周囲を固める人物の多くは架空の人物で、さらに実在の人物にも大胆な脚色が加えられています。

独自の解釈で描かれた、手塚治虫版ブッダ伝です。シッダルタは、ヒマラヤ山脈のふもとカピラヴァストウで、シャカ族の王・スッドーダナの長男として生まれました。けれども、生後7日目に母マーヤと死にわかれ、叔母のパジャーパティに育てられました。その後、16歳でヤショダラと結婚し、一子ラーフラをもうけますが、人生の根底にひそむ生老病死の問題について考えるようになり、29歳のとき、すべてをなげうって出家します。やがてピッパラの樹の下で悟りを開き、以後、ブッダ(サンスクリット語で目ざめた人という意味)と名乗って、インド各地をめぐる説法の旅を続けるのでした。

https://tezukaosamu.net/jp/manga/434.html

舞台は、現在から約2500年前の北インド。
「生命と尊厳」をテーマにした、シッダルタ(別名:釈迦、ブッダの称号を得て、仏教を開祖した)の生涯を、史実とフィクションを織り交ぜて描いた作品です。
※本記事中では「シッダルタ」の名で統一させてください。

『ブッダ』では、『火の鳥』の、特に鳳凰編に描かれている「それでもこの世は美しい」という思想を描いていることから、互いの作品を補完しており、手塚先生の代表作にあげられます。

『ブッダ』作中では、経典や仏教特有の言葉などは一切登場しませんが、
実際の仏教の教えについては、シッダルタのたどり着いた「悟り」や「説教の旅」などから間接的に学ぶことができます。

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2500年以上経った現在でも、私たちの生活に当たり前に浸透している仏教の思想を導き出した人物を、
「仏教の開祖者」ではなく、「一人の人間としてどう悩み苦しみ生き抜いたか」という点について、手塚先生流の哲学を交えて描いています

↓『ブッダ』ラストシーン

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おかざき真理 『阿・吽』

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2014年に単行本1巻が発売され、現在も小学館の月刊!スピリッツで連載中です。

日本人なら誰しもが知る、最澄(写真・上)と空海(写真・下)が、いかに既存概念を壊し、己の信念で日本を変革していったか
そして2人の苦闘と葛藤を、おかざき先生のこれまでにない素晴らしい演出で物語られています。

作中では、最澄が「広野」という名の私度僧(国の許可を得ず、私的に出家した僧)であり、
空海は「真魚」いう名の大学生であった、8世紀末頃から物語が始まります。

奈良時代から平安時代へ移り変わる頃を舞台にしているため、作中では2人の他に、桓武天皇、嵯峨天皇、藤原冬嗣、坂上田村麻呂などの歴史的人物も登場します。

日本に仏教が伝わってからまだ間もない頃(200年くらい?)であり、
『ブッダ』のラストシーンから約1300年後の世界です。

最澄は、比叡山延暦寺を総本山とした天台宗を日本に開祖しますが、
本作の面白いところは、第1話が、この延暦寺が1571年に織田信長によって焼き討たれる場面から始まります

「えぇ~だって最澄まだ延暦寺立ててないよ」という段階です。(笑)

つまり、破滅から始まる物語なんですよね~!

11巻では弘仁3年(812年)まで時が進んでいますので、今後どうなるか非常に楽しみですね!!


ブッダ阿吽1


■『ブッダ』と『阿・吽』の共通点

両作の共通点は、『ブッダ』のシッダルタと、『阿・吽』の最澄にあります

2人は、目指すべき世界自身の宿命を同じくしています。

まず、彼らの目指すべき世界とは、どのようなものなのでしょうか。

シッダルタは、元は王族出身でしたが、バラモンの教えにある、「階級」や「差別」により、人間は平等ではないという考えに疑問を持り、悟りを開くため出家しました。
そして、世の中はいつも弱者が強者によって迫害を受けています。

シッダルタは旅の途中、「弱者だけでなく強者も、人間は生によって等しく苦しんでいる」という真理に気づきます。

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そこでシッダルタは、弱者も強者も、そして善人も悪人も、全ての人を救うために、教えを説くようになります。

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『阿・吽』の最澄も、「生は苦である」ということを心得、
罪もないのに簡単に殺され死んでいく人、欲やプライドによって心が蝕まれている人、この世の全てが面倒くさくて人を殺めてしまう人、
全ての人を平等に救わなければいけないと考えています。

最澄はこの強い信念から、「現在の仏教の考えは抜けがあり、人々は苦しみから解放されない」と考え、新しい仏教・天台宗の開祖に向けて努めます。

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この信念は、『阿・吽』作中でも一貫して強く主張され、
最澄は、この世の矛盾の葛藤を背負いながらも、何度でも訴えます。

では、このような世界を目指す彼らの宿命とは何でしょうか。

シッダルタと最澄、両者ももれなく人間であり、常に苦しんでいます。
両者は、この「悩み苦しみ続ける者」としても共通しています。

シッダルタは、自身の生まれであるシャカ族と、敵国コーサラ国との戦争に、友であるタッタが巻き込まれるを止められず、タッタを失ってしまいます。
これは、シッダルタが悟りを開いてから30年後の出来事であり、「いままで何十年も人に説いてきたことはなんの役にも立たなかったのか」と、物語終盤になっても嘆き苦しみます。

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最澄も、全ての人を救うために天台宗を広めていこうとしますが、
自身の修行や理想、そして天台宗の発展が、世の中に渦巻く「欲」に追い付かず、誰も救うことができないことに涙を流します。

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『阿・吽』は、物語も新境地に入ったので、今後最澄に光が見えていくのか否か、とても楽しみです。

これらの点は、お互い全く異なった題材を扱っていながらも、「仏教」が基にあるからこそ、必然にも共通しているのではないでしょうか?


■おまけ 『ブッダ』と『阿・吽』の相違点

これ以上書くと、さすがにくどい(笑)ので、相違点についてはさらっと述べます。(笑)

あえて述べるまでもありませんが、両作品の共通点が、シッダルタと最澄にあるのであれば、
相違点はシッダルタと空海にあります

『阿・吽』の空海は、まるでこれまでの「お坊さん」のイメージにはまらない、カリスマ性をもったキャラクターです。

空海は、この世の全ての「知」からは何も見いだせず、世の中に失望しています。
そして、唯一知りえない「死」なら、自分を満たしてくれるのではないかと思っています。

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もちろん、空海も作中で、ツチグモ一族が一方的に迫害を受けているのを目にし、彼らの里である高野山を救いたいと思い、僧になり遣唐使に選ばれるよう行動します。

しかし、これは過程であり、空海の目標は、自身を満たしてくれる概念を見つけることです。
それが、彼は「死」しかないと考えています。

この思想は、『ブッダ』のテーマとは真逆であり、
シッダルタも、終盤の悟りにたどり着くまで、「死」を恐れています。

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もし、現時点の空海に答えを与えられる人物がいるのであれば、
それは、シッダルタが尊敬したアッサジだけかもしれませんね…。


■さいごに

今回も字数のわりには中身のない文書になってしまいました…。

『ブッダ』が描かれたのは1972年、『阿・吽』はその42年後。
また、『ブッダ』の世界は今から2500年以上も前です。

双方の世界で共通しているのは、「命は平等である」ということです。

しかし、今現在はどうでしょうか。

このテーマは、2500年以上前から唱えられているにも関わらず、人類はいまだに声を大にして訴えています。

それは、「人の欲」が常に変化し続けているため、その度に新しい救いが必要になっているからなのでは…

なんて、この2作を読んだだけでも、ここまで考えさせられてしまいました。

もしご興味持っていただけたら、どちらも大変名作なので、読んでもらえると嬉しいです!!

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