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スタディーノート8 亡霊

私は今ミャウーの宿に滞在している。ついにシットウェを後にしたのだ。そっと聴覚を森の虚空の方へ集中させてみる。鈴虫か何か虫と宿のペット犬の耳を強く掻き毟る音しか聞き取ることはできない。宿の主人によれば、昨日、近隣のビルマ軍施設から発砲音が聞こえたという。戦闘を行っている訳でもなく、山に潜むアラカン軍を威嚇するための射撃だそうだ。22時46分、一発の銃声が虚空を切り裂いた。

↑ラカイン州地図

写真1・乗合ボートの船長。呑気にも新聞を読んでいた。 
 
およそ一週間過ごした散らかった部屋を整理し、私物を無作為に70Lバックパックの中へ詰め込む。担いだ時に滞在前より重量が増したように感じる。フロントまで降りると、ヘンテコな丸みを帯びた大きなリュックを背負った私を見たスタッフたちは悲しそうな顔をした。少し照れ臭さを感じてしまう。

「もう行ってしまうんだね」
「 また戻ってくるから大丈夫よ」

とはいえ乗り合いボートのボーディングタイムまで2時間ほど余っていた。

今日発つことを伝えに世話になった自転車屋へ向かうことにした。彼はいつも通りお隣の呉服屋の親父と駄弁っていた。呉服屋の椅子にはもう一人顔見知りの者がいた。両頬の黒子から長い白い毛を生やした老人である。その出で立ちは、石川県の実家近くの川の主のナマズを彷彿とさせる。今年で89歳になる彼は第二次世界大戦経験者であり、すでに過去を2度も聞いている。

1941年に日本軍はビルマへ侵攻し、そのまま全土を占領した。しかし1943年のイギリスの反撃とインパール作戦失敗の結果、日本は撤退しビルマはイギリスの植民地となった。当時彼は小学生であり日英戦争の戦災を被っている。一週間に一度はあったイギリスによる爆撃から逃れ、結果的にシットウェに辿り着いたという。いつ何時も戦闘機を探すために空を見上げていたそうだ。こういった同じ話を何度も繰り返した。
 
 彼が日本語を話し出した。

「どこゆきますか」。大方日本軍兵士と関わりがあったのだろう。

また彼は当時聞いていた、というより聞かされていた「愛国行進曲」を歌い出したではないか。毎年8月に靖国で軍服を纏う者達とは違う、本物の亡霊である。ラカインの地は、彼は、日本軍人の亡霊に憑依されていた。彼の半開きの瞼から覗く水晶体には私がいる。過去を語る彼を目の前にして考え続けたのは、楽しそうに過去の体験を語りかけてくるのはなぜか、である。私は日本人で、彼を戦災に巻き込んだ張本人たちの末裔である。私は当事者でないから「ごめんなさい」とは言わないまでも、実害を被った彼には私を非難する道理はあるように思える。誠に勝手で、早合点でもあるが、私と彼が国境を越え、世代間を超えて繋がったとしか思いようがなかった。

その思い込みに私の脳味噌と心はポジティブに反応した。自分が「ロヒンギャ」タブーの地でロヒンギャについて知るために来たことを話してみたくなったのだ。おそらく以前の自転車屋の出来事に後ろめたさを感じていたのかもしれない。https://note.mu/beelzebub2424/n/n31735cfd2d7a 「自転車屋での出来事」

「おじいさん 僕はね シットウェにムスリムの人たちのことを知りたくて来たんだ。2年前のできごとはひどいと思ってるんだ。」

恐る恐る、簡単かつゆっくりの英語で話してみた。彼の反応を固唾を飲んで見守る。3秒ほど間があった。彼はわなわなと唇を震わせながら「戦争は怖いよ。人が殺されるのはいけないね」と言った。一縷の希望であった。シットウェ滞在中、前回とは一線を画す充実感を覚える一方で、ロヒンギャの行き場の無くなっている雰囲気に無力感を抱くことがないわけでもなかった。アラカン人からロヒンギャへの同情の言葉を聞くとは思ってもみなかった。それほどの諦観もあったのだろう。彼が戦争体験者であることが「他人の痛みがわかる」という理想を実現したのだろうか。とはいえラカイン州の北部に進めば武力衝突が起きており、それを支持する人が少なくはないことを忘れてはならない。彼の返答はそれをも乗り越えたものであったのだ。
こうして私はシットウェの喧騒から抜け出してゆくのであった。

写真2・過去を話してくれた老人。
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https://m.youtube.com/watch?v=2CpcztEOSrs
リンク「愛国行進曲」

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