信じること

信頼関係に関して「私の人権感覚」で述べたので、今回此処では「(私が)信じる」ことをどれほど重視しているかを述べておきます。なにせ私の哲学の基本中の基本に据えた「」なのです。勿論、私の哲学を信じなさいと(あなたに)言っているのではありません。このマガジン「🍡 どろんこ 🍡」は私の哲学をご紹介する場として使っています。それでタイミングよく愛について」語り合っているnoteがあって、そちらを素材にいたします。当然ですが当事者たち或いはオブザーバーの感覚を否定するものではありません。

あなた(= 他者)が信じる中身に関心を持たない私ではありませんが、私自身(≒ 自分自身)の信の哲学も十全でないのに、他者の信を知的好奇心だけで矯(た)めつ眇(すが)めつしても私は判断を誤まりそうです。やっぱり私(≒己)の哲学を確立するほうが当面の大事に思えます。それで素材の記事の質疑応答に最初に想ったのは(私の感覚に映ったのは)「語り合おうとする姿勢」、すなわち信頼関係を固めようとする空気が窺えた。なるほど、信頼関係を固めようとする心は「」に違いない。いやいや、これは私の感覚です。

心にが無ければ、たとえば「説明なんかしてもどうせ分らないだろうから、こんな奴は放っておけ」「相手にするな」という行動に突入するでしょう。口でいくら愛を唱えても行動が伴わなければ結局、現行不一致偽りの愛という事が分る。偽りの愛を口にする者が💛I love you 💛と耳障りの好い言葉を囁いてみても行動が伴わないゆえに、その偽りの言葉を信じた恋人は必ず馬鹿を見ることになる。恋愛ゴッコのお遊びだと納得ずくなら笑って別れられる筈なのに、別離となると醜い罵り合い‥私は可哀想でならない。

記事「筆を折った訳」にも合致することだが言葉を失った宮本百合子に何が起きたのかと思う私は、弱い立場の女性ほど現行不一致の酷い憂き目に遭わされがちなのを思わずにはいられないのです。それで私はを大事にしたいのですが、信の初めは語り合う姿勢に顕れることにはドナタも反対しないと思う。もちろん、反対するのはあなたの権利ですし、そして権利責任は固い絆で結ばれますから、仲の良い夫婦関係に似ていますよね。(笑) 結局、私は信の初めを言動に置く。ところが、これが中々に難しいようですね。

初めに述べましたが「私が信じる」ことを重視、そして「あなたが信じる中身に関心はあっても」そんなこと私には重要でない。あなたは間違いの多い他者を信じられないとしても、私にはあなたが信じられる。何を言ってるのかサッパリお分かりにならないかも知れませんが、じっさい、そういう事です。記事「私の幸せ」でも述べたように私が目標の私ですから、私はあなたを信じられる‥そういうことです。あなたに変わりなさいと私は此処で言いません。変わったら得だと思えばあなたは変わる能力をお持ちです。

なのに、私如きがいったいどんな指南をできるでしょう‥。(*´з`)

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